そのほか そのⅢ
日曜日の散歩者 2018.3.3
僕は静かな物を見るため眼をとぢる...
夢の中に生れて来る奇蹟
回転する桃色の甘美......
春はうろたへた頭脳を夢のやうに──
砕けた記憶になきついている
楊熾昌「日曜日的な散歩者」
1933年、日本統治下の台湾に登場したモダニズム詩人団体「風車詩社」(楊熾昌、李張瑞、林永修、張良典ほか台湾在住の日本人3名)にスポットを当てた映画がいま話題になっている。
その作品は黃亞歷(ホアン・ヤーリー)監督作品で『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』という当時の日本の歴史文化に直結するドキュメント映画で、台湾のアカデミー賞に相当する金馬奨で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した作品なのだ。
日本の統治下におかれ40年近くも経過した1930年代の台湾。彼らは植民地支配下で日本語教育を受け、日本留学の経験をもつエリートで、日本語による詩を創作し、新しい台湾文学の創造を試みた。
とりわけ、彼らは近代詩の先駆者でモダニスト西脇順三郎や滝口修造といった前衛的な日本の文学者たちに学び、ジャン・コクトーなど西洋のモダニズムや文学にふれることで新しい芸術の可能性を探るのだが台湾文学の中で彼らはあまりにも異質だった。また、彼らにとって母国語(ことば)の問題は台湾のアイデンティティにかかわる大きな壁となった。
第二次世界大戦とともに軍国主義が台頭する時代にあって彼らが活動する場はどこにもなくなった。やがて、日本の敗戦を経て、台湾は中国国民党による独裁時代へと移っていくが、1947年の二二八事件で楊熾昌と張良典が無実の罪で入獄させられ、1952年には白色テロによって李張瑞は銃殺されてしまう。
日本語そのものが禁止されていた戦後の台湾では、風車詩社は人々から長らく忘れられた存在となっていた。
この映画は2012年、ホアン・ヤーリー監督がある映画の資料を探す過程で、偶然にも林永修の文章を見つけ風車詩社の存在を知ることになり、そのときの衝撃がこの映画製作の発端となったという。
若いころ、日本のシュールリアリズムの拠点といわれる美術文化協会に所属した筆者としては、たいへん興味深い映画であり個人的にも詳細をつきとめたいところだ。
アンドレ・ブルドンがシュールリアリズム宣言を発表したのが1924年、靉光や古賀春江、北脇昇といった美術文化のシュールリアリズム絵画もこの映画に挿入されているけれど、福沢一郎や滝口修造が創紀会をはじめとする他の前衛芸術家たち、身近なところでは岩国の彫刻家國光与らとともに美術文化協会を発足させたのが盧溝橋事件の1937年ということを思えば、この映画の時代背景や台湾の状況ともみごとに重なってくる。
同会の創立会員でもある白木正一・早瀬龍江の両氏がニューヨークから一時帰国された折、本人から獄中の滝口や福沢らに差し入れした当時の生々しい実話を聞いたことがあるけれど、台湾の楊熾昌と張良典らも同じように台湾で投獄され激しく弾圧されたことになる。
と、一年半の活動とはいえ歴史に埋もれた「風車詩社」の文学を通し、当時の台湾と日本の関係さらに政治弾圧という社会的な側面を浮かび上がらせるシリアスな映画といえるけれど、アンドレ・ブルドンやジャン・コクトー、ピカソやサルバドール・ダリといった肖像や彼らの作品の他にも、ミロやマグリット、タンギー、キリコらの多くの絵画作品が挿入され、映画そのものはモダンなタッチで(語り、絵画・映像、詩作・文字という)異質のエレメントが織り込まれ、当時の風俗や政治的背景とともにブリコラージュされ効果的な音楽とともにつなぎ合わされる仕組みとなっている。
つまり、巌谷国士がいうように日本にシュールリアリズムは定着しなかったかもしれないが、この映画づくりそのものは断片的につなぎ合わされることで生成される偶然の産物、あるいは必然的な因果関係として成立する重層的な意味を問いかける厚みをもっていて新しいドキュメント映画の可能性を感じさせる。製作の発端となった風車詩社との衝撃的な出会いといい、まさしくシュールリアリズムの理論にかなった手法ということもできるだろう。
それというのも、筆者の所属した美術文化協会(1974~79)はダダイズムや創立当初の精神とはおよそ無縁の観念論的な思弁の世界に寄りかかった幻想優美主義とでもいうような作風ばかりで、所謂シュールリアリズムの可能性を感じさせるものではなかったからだ。ぼくはこのとき同会の大きな屈折、抜き差しならない戦後の決定的な断裂を知ることになったのだった。
だが、美術文化協会の先達にはこの映画にも挿入されていたように靉光、古賀春江、北脇昇のほかに杉全直、斎藤義重、山下菊二、糸園和三郎というすぐれて大きな存在があったことも事実なのである。
この作品の監督ホアン・ヤーリー氏はインタビューに対してこのように応えている。
1930年代、日本人、台湾人、そして西洋の芸術家達はあらゆる表現手法を試みており、そこにはあらゆる可能性が存在していた。表現形式や様式の枠をとりはらい私はこの可能性こそがこの映画の核心だと思っています、と。
まさしく、この映画はシュールレアリスムの可能性を証明した作品ともいえるだろう。
ふたりの時間とまなざし『ともだちのときちゃん』(岩瀬成子作 植田真絵 フレーベル館)2017.09.21
子どものころ、頭のいい子や面白いことのできる友だちの頭の中をのぞいてみたいと思うことがよくありました。その友だちの頭とぼくのあたまを取り換えるとどんな感じ方や見え方ができるのだろう、と想像するのです。きっと、むずかしい計算問題もすらすらとできるのだろうな、などと考えるのです。
「カメのこうらの中に、なにがあるとおもう?」
このおはなしの中で、ときちゃんはそんなことばかり考えています。
さつきは4月生まれ、時ちゃんは3月生まれの小学2年生。
ときちゃんはだまっていることがおおいけれど、さつきはおしゃべりが大すき。
知っていることはなんでもはなしたがります。
「よく知ってるね」とほめられるとうれしくなるから。
でも、ある日、さつきはときちゃんから「生きていると、きのうとはちょっとだけちがっちゃっているよ」といわれて、かんがえてしまいます。
フレーベル館【おはなしのまどシリーズ】として出版された岩瀬成子の新刊『ともだちのときちゃん』は、イメージの広がりとこの年頃の子どもが経験する瑞々しい出会いにあふれています。
わたしとときちゃん、このお話しの中ではふたりの時間とまなざしは少しちがっていて、そのことがふたりにとってふしぎな感覚と感情をもたせています。もしかしたら、わたしは“いじわるをしているのかもしれない”とか、“ときちゃんみたいにしていたい”とか・・・。
おそらく、ときちゃんもしっかりもののさつきちゃんにあこがれているかもしれません。
ほどよい距離間をもつことで、心地いい友だち関係がつづけられるといえばいいのか、そういう子どもたちのようすをぼくの周りにもよくみかけることがあります。そういう子はときちゃんのように細部をみつめているのかもしれません。
著者はそういう細部をみつめる子どもの感情をとてもよく描いていて、このお話しの最後のところでたくさんのコスモスの花にかこまれて青い空と雲をみつながら「ぜんぶ、ぜんぶ、きれいだねえ」とふたりの気持ちをつたえています。
さて、子どもたちの読後の印象はどんなものでしょうか、楽しみですね。
何気ない日常と市井の人々 映画『PATERSON』 2017.09.22
アメリカの映画監督ジム・ジャームッシュの最新作『PATERSON』をサロンシネマ(広島)にて視聴。もの静かでミニマル調の作品ながら情報やものに溢れている現代社会の価値観に一石と投じる素晴らしい作品だと思った。
それというのも構成自体はきわめてシンプル。
パターソンという小さな町に住むパターソンという名の男の7日間を丁寧に描いた物語といってしまえばそれまでだが、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で衝撃的なデビューをしたこの監督ならではの絶妙な切り口で、優しさと愛しさに溢れた作品に昇華させている。
彼の一日は朝、隣に眠る妻にキスするところからはじまる。彼は時計をみる。決まりきった朝の食事をして家を出て仕事に向かう。彼はバスの運転手なのだ。乗務をこなす中で、心に浮かぶ詩を秘密のノートに書きとめていく。職場の同僚と他愛のない言葉を交わしてバスを出す。何げない乗客たちの会話がある。
帰宅すると傾いた郵便ポストを直して家に入る。妻と夕食を取ると愛犬マーヴィンと夜の散歩に出かける。途中にあるバーに立ち寄って一杯のビールを飲む。帰宅し妻の隣で眠りにつく。そういうシーンが繰り返される。
代り映えのしない退屈な日々のようでありながらも、その町に暮らすユニークな人びととの交流や思いがけない出会いをユーモアと優しさに溢れた眼差しでひっそりとしたタッチで丁寧に描いている。
静かに目を凝らし、耳をすませば、日々のようすも変わって見えてくる。昨日と同じ日はないし毎日が新しい。もしかして、そこに自分らしい生き方を発見する手がかりがあるのかもしれない。この映画を観て本当にそう思う。
愛犬とのやりとりも貴重なシーンだ。郵便ポストにいたずらする演技もこの作品に欠かせない大切な場面となっている。
『ダウン・バイ・ロー』を観てからはしばらくの間、この監督の作品に触れることはなかったのだがいつも気になっていた。ジム・ジャームッシュはどうしているのだろうと思っていたら、その後もたくさんの仕事をしていたことが分かった。この作品で久しぶりにこの監督の作品に触れたわけだがとてもいい作品だと思った。
とりわけ、4年ぶりとなるこの作品は初期作を彷彿とさせる集大成といわれ、随所にそのエッセンスとエスプリが織り込まれているようで心地いいのだ。
ひと言でアメリカ映画といっても孤高の奇才といわれるジム・ジャームッシュの作品は、いわゆるハリウッド映画とはまったく違う独特のおもしろさがあるのだ。長年、インディペンデント映画界に身を置きリードしてきたその手法は膨大な制作費を使うわけでもなく、何気ない日常と市井の人々の暮らしを淡々と切り取っていく特有のセンスがすでに詩そのものだといっていい。まさしく、映画全体がポエティックな感覚で溢れているともいえるだろう。
キャストは主演に『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のアダム・ドライバー(パターソン)、妻に『ワールド・オブ・ライズ』でデカプリオと共演したゴルシフテ・ファラハニ(ローラ)、そのほか永瀬正敏、バリー・シャバカ・ヘンリー(ドク)、クリフ・スミス(メソッド・マン)、チャステン・ハーモン(マリー)、ウィリアム・ジャクソン・ハーパー(エヴェレット)、パルム・ドッグ賞のネリー(マーヴィン)と充実した顔ぶれ。
このように知的で豊かな暮らしそして愛しさに充たされた生き方があっていい。ぼくはおもわず「四畳半の王国」や「三畳御殿」を思いだしながら「詩人っていいな、恰好いいなあ・・・」とあらためて感謝感激。
いやーっ、映画って本当にいいですね。
大胆な仮説と確かな眼差し『山に生きる人びと』(宮本常一著。河出文庫)2017.09.14
本編『山に生きる人びと』は、宮本民俗学がその膨大な調査資料から大胆にスケッチしたこの国の民族史にかかわるきわめて興味深い論考といえる。著者はあくまでも試論としてそのイメージをまとめたものとしているが調査に裏づけられた説得力のある著述と云っていい。
なかんずく、“聞きとり”の天才ともいわれたこの著者が附録として添えた「山と人間」における論考は、昭和36年の夏、高知から大阪までの飛行機内の上空から読み解く山中の景観に端を発したもので宮本常一ならではの象徴的な記述といえるだろう。
四国山中のみならず、九州の米良、椎葉、諸塚、五家荘、五木に見られる景観、とりわけ南九州にみられる八重という地名や近畿地方の吉野熊野山中の風景を読み解くなかでは、村々の大半が水田をもたず、焼畑、定畑を耕作し、その集落は山腹のやや緩傾斜面にあるという。さらに、そういう集落は列島各地でみられ、必ずしも川の方から谷を上がって村をひらいたものではないとしている。
石川県の白峰村でも白峰を中心にした一帯も焼畑耕作の盛んなところで、牛首というところから奥には水田はほとんどなく、緩傾斜地に焼畑をひらき、鍬棒づくりをして生活を営んでいるという。また、ここでは焼畑をムツシといって牛首奥の山地で焼畑をしては新しい適地を求めて移動するようになったとも・・・。
つまり、長野県伊那郡坂部の熊谷家のように水田地帯から入って山中に定住した特異なケースや中国地方の山中は田と畑の両方をつくる例もあるけれど、定住のきわめて古かった山中の村々の場合は畑作のみに依存しているのがほとんどだとしている。
確かに山に生きる山岳民のくらしにはマタギといわれる狩猟民、杓子・鍬柄大工、木地屋、鉱山師、炭焼き、木挽など、あきらかに平地民とはちがう生活の営みがあったと指摘。
赤坂憲雄の解説にもあるように本著は40年ほど前に刊行された柳田國男の『山の人生』を強く意識して書かれたものかもしれないが、『山に生きる人びと』では平地民とは異なる歴史を背負った民族が存在した可能性を問いかける宮本民俗学ならではの大胆な仮説と確かな眼差しがある。
さらに、赤坂氏は次のようにも指摘する。古い縄文期の民俗的な文化が焼畑あるいは定畑などを中心にした農耕社会にうけつがれた一方で、水田稲作を中心にした農耕文化が天皇制国家を形成し、後々まで併行して存在しかつ対立の形をとったのではなかろうか、と。
推定であり試論とはいうものの、まちがいなく柳田の『山の人生』とともに本著『山に生きる人びと』も列島の民族史への最後のアプローチとして知の系譜のなかに記憶される著作と云えるだろう。
二人の『人生ものがたり』 2017.08.17
風が吹けば、枯葉が落ちる。
枯葉が落ちれば、土が肥える。
土が肥えれば、果実が実る。
こつこつ、ゆっくり。
人生、フルーツ。
何回か繰りかえされるこの言葉。
昨日は、いま話題の映画『人生フルーツ』(伏原健之監督作品、東海テレビ制作)を広島八丁座にて鑑賞するために広島まで車を走らせる。いつもの駐車場に車を入れてPARCO辺りをぶらつくと岩国とは違って若い人が多いのにおどろく。それにおしゃれを楽しんでいる人も多い気がする。
買い物をすませて八丁座に行くと、ここにはぼくたちとほぼ同世代の人がほとんどで若い人はちらほらという感じである。
「家は、暮らしの宝石箱でなくてはいけない」建築家のル・コルヴィジェの言葉だ。
このドキュメント映画は、日本住宅公団のエースとして阿佐ヶ谷住宅や多摩平団地などの都市計画に携わってきた建築家津端修一さん夫妻の暮らしぶりを記録したものである。
1960年代、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指した春日井市高蔵寺ニュータウンを計画。けれど、経済優先の時代はそれを許さず、完成したのは理想とはほど遠い無機質な大規模団地。
津端修一さんと妻の英子さんはこのニュータウンの一角に師となる建築家アントニン・レーモンドの自邸に倣って家を建てコツコツと雑木林を育てはじめる。果物や野菜など100種類もの作物を育てる。長年連れ添った夫婦の暮らしは、細やかな気遣いと工夫に満ちている。スローライフスタイル、かつての日本の里山の暮らしぶりに回帰するのではなく、団地に住む個々の住民がゆっくりとこつこつと暮らしはじめたらどうだろう、などと想像力を働かせ考えさせるのだ。
そんな折、90を迎えた修一さんに新しい仕事がはいってくる。佐賀県伊万里市の精神科病院の新しい施設の建設計画だ。豊かさとは何か、人が自然とともに快適に暮らすことができる環境を提言し、報酬は不要として早急にイメージをまとめる。完成されたものを与え受けとるのではなく、時間をかけて小さな苗木から育てることを提言する。
修一さんは畑仕事ののち、昼寝をしたまま逝ってしまうことに・・・。
修一さんの死に顔がアップで長映しされる。不自然にも受けとれるが印象的なシーンだ。
「修一さんに、おいしいものをもっとたくさん作ってあげればよかった」という英子さんの最後の言葉と、少し荒れた庭のシーンもいろいろなことを考えさせる。
この作品には市場経済最優先で行き詰った現在への問いが込められている、と云ってみたがここへきてむしろ老夫婦の丁寧な暮らしぶりと価値観が重く伝わってくる。
小さな苗木は雑木林に成長し、畑では100種類もの野菜や果実が育つ。英子さんは、畑でとれた作物で修一さんに手料理をふるまう日々。彼女は「食は命」という。二人の家は30畳一間の丸太小屋。その暮らしはまるで現代の桃源郷のようでもある。二人は「年を重ねるごとに美しくなる人生にしたい」という。
やはり、この映画は二人の『人生のものがたり』というべきものかもしれない。
逆流と過剰の作家/殿敷侃展 2017.07.12
ぼくがこの作家の実作品をはじめて観ることができたのは東京から岩国へ帰郷して間もない1980年代のはじめだったように思う。当時、広島のYMCAの近くにあったナガタ画廊で行われた個展で点描の作品だった。
二人とも今は亡くなってしまったが吉村芳生を介してのことだったように思う。吉村とは東京にいた頃からの知り合いで、彼はぼくよりひと足さきに山口に帰って広島と山口を拠点にして活動していた。
その後、殿敷侃と出会ったのは彼がオルガナイザーとして錦帯橋の川原で行った1988年の環境アートプロジェクトのシンポジウムでのことだった。その前にも山口市に在住する彫刻家・田中米吉さんが宇部の野外彫刻展で大賞を受賞されたお祝いの会で一こと二こと挨拶を交わしたことはあったが、この作家とのまともな出会いは残念ながら失ったままだった気がする。
1989年、ぼくは高知で行われたポリクロスアート展に参加していて地元岩国の環境アートに関する情報はほとんど知らないままだったように思う。だから、吉村芳生やほかの人を介して彼のことを知らされていたように思う。独断的で独りよがりのところがあるけどおもしろい作家とかいろいろな話を聞かされたけれど気に留めることもなかったように思う。
今回はじめてこのような回顧展をみる機会があってぼくは本当に嬉しかったしとても良かったと思う。それというのも本展が殿敷のほぼ全貌に迫る好企画だったことだけでなく、国鉄時代の彼のいい絵画作品にふれることができたのが何よりもありがたかった。
だいぶん前のことになるが下関市立美術館の館長・濱本聡さんが殿敷侃の芸術について「過剰」という言葉で論じた印象的な評論を読んだことがあった。今回の展覧会を観て彼をここまで突き動かす創作意欲とその動機のようなものを垣間みたように思う。
シルクスクリーンを手がけるようになってその過剰性はおびただしいまでに膨張しているようにみえるけれど、地域住民を巻き込む手法だけでなくそれほど意識していたものでもなさそうな環境破壊や消費社会に対する「逆流」というコンセプトは確かに注目に値するものといえる。とりわけ、その求心性において他者を大いにひきつける魅力的な何かがあったものと思われる。
その当時、ようやくエコロジカルな運動や考え方が注目されようとしていたこともあるけれど、まだまだそれまでの環境芸術という概念が支配的だったようにも思う。つまり、芸術作品が設置されるエンヴァイラメントなる環境意識が問題視されていたからでもある。
皮肉にも彼がオルガナイザーとしてかかわった岩国の環境アートでの「錦川のビニール流し」の作品は思いつきの失敗作となってしまったけれど、過剰なまでにビニールを真っ赤に塗ったパフォーマンスや小学校の解体材料で壁をつくったドリームフェンスプロジェクトに見られる集積と時空間への営為は初期の点描や細密画などに共通しているようにも見える。
けだし、そういう観点だけでなく1985年のシルクスクリーンのキノコ雲やケロイド状の背中やポスターにみられるメッセージ性や社会問題への意識がこの時期から重視されていたのかもしれない。ぼくはそう思う。
過剰なまでに氾濫する情報の目まぐるしさの中で必然的に影響されながらも挑み続けた殿敷侃という作家の言動にはあらためて再考する必要を感じさせるインパクトがあるように思う。展示構成もよくまとめられていてよかった。
断片的なイメージと記憶『パラレル』 (長嶋有著 文春文庫) 2017/6/29
どういえばいいのだろうこの小説。『パラレル』はある意味で実験的でもあり野心的な作品といえるのではないか。この作家特有の文体といえばそれまでだが、なんでもない日常的な時間が大きな起伏もなくとりとめもなくつづくスタイルはこの時代の感覚をみごとに浮き彫りにする。だが、本編ではそこに奇妙な仕掛けを施しているような気がするのだ。何故なら、ここでは今・大学時代・離婚前後といった三つの時系列における出来事やそれぞれのエピソードがパラレルに進行するように描かれているからだ。
今、といっても8月末から12月までの僅か4か月の物語にすぎないことではあるが、そこに大学時代と離婚前後の状況とエピソードが断片的に織り込まれ、すべてが同期するように措定されている。
そのことが、さらに読者の個人的な体験とかさなりあうように記憶を刺激し読むことの経験を更新し感覚を覚醒させる、という実験的なカラクリになっているように思えるのだ。
つまり、ここではそれぞれの出来事やエピソードを構築して一つの物語として固定的な世界を表すのではなく、断片的に提示されているだけで固定されたイメージが提供されるのではない。流動的とはいわないまでも、あえて読者の体験や記憶とかさねられるように考えられているのではないか。
たとえば、今の僕はこのように描写されている。
「またこういうゲームを作らないんですか」うん、なかなか難しくてね。そうですか、大変ですものね。きっと。
本当は、もうゲーム制作に携わりたくなかった。僕以外にも新作を発表しなくなったフリーのゲームデザイナーを何人かしっている。理由は様々だろう。売れないからと決めつけられて好きな作品を作らせてもらえない、労働に対してギャラが少ないなど。
「わがままいっているだけでしょう」リメイクの仕事をやめたと告げたとき、妻には手厳しくいわれたものだ。(本文p104)
大体が人は一日に三時間も働けば十分だとぼくは思っている。する事も特にないのに数あわせでいる奴は帰ったほうがましだし、何時間も集中力を持続できるはずがない。
携帯電話やメールに触れ、その便利さを実感する毎に思う。これで楽になって浮いた時間の分は、働かない方向に費やされればいいのに、世界は一向にそうならない。空いた時間を詰めて次の仕事を入れるようになっていくだけだ。
いつか三時間労働説を唱えたら津田は目を丸くして
「うん、おまえはそれが正しい」といった。僕の正しさと津田の正しさとあるということか。
そのころ津田もまさに幾晩もの寝泊りを繰り返していた。会社に三年休まずに勤め、胃に穴をあけて入院したりしていた。(本文p108)
別れてもなお連絡がきて往き来したりする元妻、そして新しい恋人・・・、いくつかのエピソードと相談ごとがあり何気ない時間が流れていく。
一方、顔面至上主義のプレイボーイ津田の日常はどうかといえば、いろいろな女の子とパラで付き合い、会社を立ち上げたり倒産したり、それなりに充実した生活ぶりなのだ。
「ラブか、ラブはもういい」津田は弱気にいうと焼き魚を箸でほぐしはじめた。
「最近は、ラブよりも弟子にあこがれる」とつづけた。弟子?そう、弟子。津田は持論を披露しはじめた。
「師匠と弟子は、世にあるあらゆる関係の中で、今やもっとも珍重すべきものだ。恋人は裏切るし、夫婦は干からびるし、家族だって持ち重りが過ぎる。部下だって上司だって、扱いってものがある。バイトやパートはすぐに帰ってしまうし、美人秘書にはべらぼうな高給を払わないといけないだろう」
「まあ、美人はおしなべてそうだね」だろう、というように頷くと津田はおかわりのつもりで空のジョッキを持ち上げた。(本文p112)
このように時代の気分は二人の感覚をとおしてみごとに描写され読者の記憶と交差する。まさしく、長嶋ワールド特有のスタイルといえそうだ。
だが、完成された1つの作品でさえ引用の対象とされブリコラージュされることをおもえば、この作品はたしかに読者の記憶や体験をとおして成り立つ不定形ともいうべき自由度をもつことを視野に入れた作品ともいえる。これほど魅惑的な試みがあるだろうか。
イノセントな感覚世界 『ちょっとおんぶ』(岩瀬成子著 北見葉胡絵 講談社) 2017/5/15
この本は6才になる女の子・つきちゃんのお話しで、「あな」「ちょっとおんぶ」「さむい」「アサリせんせい」「リボンごっこ」「これ、できる?」「ないしょ」と7つの短編からできています。画家・北見葉胡さんの絵とかさなるようなイメージで不思議な世界の広がりを感じさせてくれます。
「あ、じゃあねえ、これ、できる?」と、キツネの子はいって、どんぐりをじめんにおいてから、でんぐりがえりをしました。(p73)
そうです。つきちゃんは動物たちとお話ができるのですね。
○月○日、ぼくはタヌキです、とはじまる長新太さんの「ヘンテコどうぶつ日記」が思いだされるかもしれませんがやはりこの作品はこの作家独特の研ぎすまされた感覚であふれています。
北見葉胡さんも丁寧にその世界を描こうとしていることがよくわかりますね。北見さんといえばシュールリアリズムを思わせるような物静かでスタティックな画風の印象が強かったのですが、ここでは動的で新しい世界を感じさせるスタイルとなっていてこの画家の可能性と底力を感じます。
いまは、よるのまん中です。いま、おきてフクロウのこえをきいている子は、きっとわたしだけです。
「ホーホッホ、ホー。」
ふくろうのなきまねをしました。
「ねえ。」と、木のうしろからこえがしました。
なんだ、おきている子はわたしだけじゃなかったんだ、と、ちょっとがっかりしながら、「なに。」と、へんじしました。
「ぼく、つかれちゃったから、ちょっとおんぶ。」と、その子はいいます。
「ほんとにちょっとだけ?」というと、
「ちょっとだけでいい。」といいながら、くらい木のうしろから、くろいクマの子が出てきました。(p14)
この6才のこども特有のイノセントな感覚世界。この年ごろの人間だけが経験できる世界認識のあり方が本当にあるのかもしれない。あっていいとも思うし、ぼくはそれを信じていいようにも思います。名作「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ)が普遍的に愛読されるのもこの点で納得できる気がするのです。
この本の帯にあるように、絵本を卒業する必要はないけれど絵本を卒業したお子さんのひとり読みや、読みきかせにぴったり!といえるかもしれません。どうぞ、手にとって読んでみてくださいね。
沖縄の抵抗 2017.5.5
5月3日、九条の会岩国は琉球大法科大学院の高良鉄美教授を招いて恒例の記念講演を行った。
演題は「沖縄はなぜ基地を拒否するのか!?-平和憲法と、沖縄の視点 歴史から-」として、「沖縄の自治は神話」とまでいわれたその歴史と現状について、①沖縄の5月3日憲法記念日 ②沖縄の戦力、軍馬一頭 琉球処分 ③沖縄戦 ④基地問題 ⑤基地問題の現在 ⑥基地問題の近未来、の6項目に分けてスライドを使った丁寧な説明をされた。
とりわけ、③沖縄戦では日本軍基地建設と基地破壊と米軍基地建設について、旧日本軍基地、収容所時代の建設基地、講和条約分離による米軍の強制接収建設基地、そして今建設されようとしている④番目の日本による建設について問いかけるように解説されたのが印象的だった。
ぼくはこの講演を前にして広島の横川シネマで上映中のドキュメント映画「標的の島、風かたか」(三上智恵監督作品)をみていたこともあって、凄まじい沖縄の抵抗と琉球王国にさかのぼる素晴らしい歴史と文化を分かりやすく紹介された。
講演終了後に高良さんを囲んで行われた「交流会・打ち上げ」では、東北と同じように歴史と文化・自然、そこで培われた「誇り」を次世代に伝える責任と使命のようなことが沖縄の抵抗の力となっているともいわれた。
米軍基地をかかえる岩国の現状とくらべてみると雲泥の差というほかない。つまり、岩国では「沖縄の負担軽減」などと一見まともにみえるその内実は地域振興策の補助金目当てが透き通るようにみえているからだ。
国から一方的に奪われた歴史とはちがい、倒幕後に明治政府を樹立し多くの総理大臣を輩出してきた歴史すなわち国の統治における光の歴史をもつ地域性のちがいのようにもみえる。
SNSで知るところでは、神奈川新聞の憲法特集において武道家で哲学者・内田樹氏は「『属国』直視から」として実に興味深い記事を寄せている。
ニーチェによれば、弱者であるがゆえに欲望の実現を阻まれた者が、その不能と断念を、あたかもおのれの意志に基づく主体的な決断であるかのようにふるまうとき、人は「奴隷」になる。「主人の眼でものを見るようになった奴隷」が真の奴隷である。彼には自由人になるチャンスが訪れないからである。
日本はアメリカの属国であり、国家主権を損なわれているが、その事実を他国による強制ではなく、「おのれの意志に基づく主体的な決断」であるかのように思いなすことでみずからを「真の属国」という地位に釘付けにしている。
・・・略・・・
日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で国際法上の戦争状態を終わらせ、国家主権を回復した。だが、68年には小笠原諸島、72年には沖縄の施政権が返還された。戦後27年間は「対米従属」は「対米自立」の果実を定期的にもたらしたのである。
だが、この成功体験に居ついたせいで、日本の政官は以後対米従属を自己目的化し、それがどのような成果をもたらすかを吟味する習慣を失ってしまった。
それどころか、対米自立が果たされないのは「対米従属が足りない」からだという倒錯的な思考にはまり込んで、「年次要望改革書」や日米合同委員会を通じて、アメリカから通告されるすべての要求を丸のみすることが国策「そのもの」になった。
戦後70年を過ぎても日米地位協定のあり方が改善されないのもこれではどうしようもないというものだ。
米軍再編と岩国 2017.05.24
23日(火)はシンフォニア岩国において、岩国の将来をきめる厚木からの「空母艦載機移駐計画」について住民説明会が行われた。壇上のひな壇には市当局の幹部らと中国防衛施設局の数人がオブザーバーとして座っていた。
福田市長の挨拶からはじまり、市長は用意した資料をもとに自らひとりで説明した。①市のスタンス ②安心、安全対策 ③地域振興策 ④国への要望事項など、これまでの成果として一方的にひと通りの説明をした後、つめかけた多くの市民から活発な質疑が交わされたが残念ながら時間切れというところで終了。結局、説明会は中途半端な結果となり、「こんな説明会があるか!」などと怒号が飛び交うなか一方的に打ち切られたかたちとなった。
岩国市の基本的なスタンスとしては騒音や安全性など基地周辺住民の生活環境が現状より悪化しないこと、着艦訓練の実施を認めないこと、などとしているが現状はどうか?
分析・検証の結果、「騒音が拡大する地域はあるものの、国や米側のも確認できたとして全体として悪化することはない」としている。また、着艦訓練においては恒常的にすることはない、できる限り硫黄島で実施するよう米側と確認している、と説明。
米軍再編に対する基本的な姿勢として、現時点において日米ロードマップに示されている以外の新たな舞台や航空機の配備はないしこれ以上の負担増を岩国にお願いすることはない、との説明を受けているとした。
だが、こんな約束がこれまで守られたためしはない。つめかけた市民からは11年前の住民投票の結果をみても当然のことながら懐疑的な質問が飛び交った。騒音被害や犯罪の増加に対する懸念のほか、治安対策や文化的な慣習の違いから考えられる迷惑行為等々の不安。
一旦、受け入れを容認すれば取り返しのつかない恒常的な不安と被害を受ける多大なリスクを負うことに対して責任がとれるのか等々、次世代に岩国としての『誇り』を伝えられるのか、などと激しい意見も交わされた。
福田市長はさらにつづける。市の安心・安全対策(43項目)の達成状況の説明としては、およそ8割の要望が達成されていると自画自賛。
市民からは今建設中の野球や陸上競技などのスポーツ施設の運用が既存の運動公園のように日米でできるよう確約できているのかなどと質問がでたが、今もってそのことは協議中で要望しているとの説明に終わった。防音工事や防犯警備体制の強化などについては防犯灯、防犯カメラ、安心安全パトロールで対応するとなった。
だが、北朝鮮の脅威、在日米軍基地を攻撃目標とする旨の発表から防災訓練の必要性、防災施設やシェルターもないという現状では不安は払しょくできないとの意見も・・・。
大雑把にみて岩国市の対応として感じることは、基地増強を容認する代わりに地域振興策として幹線道路、川下地区の都市基盤、中心市街地の活性化対策のほか各種インフラ整備の要望に加えて学校給食の無償化や更なる再編交付金の増額延長を国に求めるだけで、将来的な地域づくり街づくりのVISIONに欠けていることは否定できない。
日米地位協定の改正はほとんど棚上げにされたまま、基地増強と引き換えに目先のハード事業の充実にばかり偏り過ぎている気がしてならない。このままでは次世代に受け継いでもらう誇りがもてるはずもない。
日米安保を軸とした国防上の問題もあるわけだが、米国の極東アジアを中心とした軍事戦略上の問題もある。日本は奴隷のように自ら米国に従属し一方的に沖縄に基地負担を押し付けるのではなく、主権国家として地位協定の改正を求めるべきである。改憲を叫ぶ前にそれが必要不可欠の条件ではないか、ぼくはそう思う。
北朝鮮問題だけでなく、ドキュメント映画「標的の島 風かたか」を観て分かるように中国軍との戦争を限定的に行う近未来の戦争のあり方を想像するならこれほど馬鹿げたことはないしあってはならない危険性も垣間見えてくるはずだ。
わずか戦後70年、あの悲惨な状況を考えれば岩国市の対応もはっきりしてくるはずなのだが市の現状はあまりにもお粗末というほかない。
スナメリたちの裁判は・・・『きせきの海をうめたてないで』(キム・ファン著 童心社)2017/1/17
くりかえされる生ものたちの声声声。
「わたしたちがすむ海を人間がうめたててしまったら、もう生きてはいけません。わたしたちはよその海では生きられないのです。どうか、うめたてないでください」
本著はこれから原子力発電所が建設されようとしている上関の海に生息するスナメリ、カンムリウミスズメ、ヤシマイシン近似種、ナガシマツボ、ナメクジウオ、スギモクたち六つの貴重な生きものが山口地裁におこした“いのちの声”をまとめたものである。
著者はこれまで動物児童文学作家としてノンフィクションを中心に自然科学分野の絵本や読み物を手がけてこられたキム・ファンさん。キムさんは瀬戸内海、とりわけこの上関の海に生息する“生きものたちのくらし“を調べることから人々のくらしと文化、瀬戸内海で培われた「スナメリあじろ漁」にみられる生きものたちと共存してきた歴史を考える。
“きせきの海”といわれる上関の海で生活する「上関の自然を守る会」代表の高島美登里さんは裁判で次のように証言。
「では、だれがこの豊かな自然を守ってきたのでしょうか?その答えは、祝島の人たちです。『とりすぎず、つくりすぎない』自然とともに生きる生活の知恵で守ってきたのです」(本文p49)
生きものたちの調査では瀬戸内海でスナメリが暮らせる場所はもう、上関しか残っていないことが科学的に明らかになり、よその海では生きていけないことが分かったのだった。
祝島で暮らしてきた中村隆子さんは次のように証言。
「わたしは七十九歳(平成二十一年当時)になる今日まで祝島で生活し、六人の子どもを『ほこつき』、すなわち『いさり漁』で育てあげた。
略・・・なによりもましてすんだきれいな海でないと仕事にはなりません。いままで、きれいで豊かな自然のめぐみを受け、生活してこれたし、これからもずっと生活していくわたしたちにとって、原発のためにうめたてをおこなって海をよごされることは、島で生きていくためには死活問題であり、絶対にゆるされるものではありません」と。(本文p55)
海のめぐみで、ぶじに子どもを育てることができたし、祝島の人たちと同じように、「海鳥」たちもきれいな海で魚をとり、子育てをしています。うめたてによって海をよごされることは本当に死活問題なのです。
ゆたかな暮らしとは何か。
わずか10数年の原子力発電所のため、これまでの島の人々とともに暮らしてきた生きものたちの歴史が破壊されていいはずはない。“きせきの海”の生きものたちの声は山口地裁でどのように受けとめられるのだろう・・・
3.11東日本大震災と福一原発事故がよみがえってくる。極東アジアの地形的な自然災害と人災としてのあの原発事故が思いだされる。
スナメリたち6つの生きものたちの丁寧な調査から生きものと共に暮らす上関の人々の活動を通してわかりやすく今日的な問題へと案内してくれるきわめて良質の児童書である。
どうぞ、子どもたちとご一緒にお読みください。
文体のリズムと圧倒的な筆力 『パンク侍、斬られて候』 (町田康著 角川文庫) 2017/3/3
天才・町田康を証明するに相応しい名著といえる本編『パンク侍、斬られて候』、それは本当に見事というほかない。
シュールリアリズムの奇才、あのサルバドール・ダリでさえびっくりするほどのパラドックスは時代めいた言葉や気の利いた設定からして時代小説のように受け取れるかもしれないが、じつは現代社会が抱えた問題を浮き彫りにするきわめて現代的な小説といえるのだ。
物語は江戸時代。街道沿いの茶店に腰かけていた一人の牢人が、そこにいた盲目の娘を連れた巡礼の老人を「ずばっ」と斬り捨てることからはじまり、その後どういういきさつでか目が見えるようになったその娘(ろん)に竹ベラで刺され仇討ちされるまでを描いたものである。だが、その展開たるや奇想天外。まさしく町田ワールドそのものであり自前のパラドックスが炸裂することになる。
居合わせた黒和藩士長岡主馬に理由を問われた掛十之進なる牢人は、老人がこの地に恐るべき災難をもたらす「腹ふり党」の一員であることを察して事前にそれを防止したのだと告げた。
「腹ふり党」とは何か、といえば本当にバカバカしいまでに滑稽な新興宗教のようなものなのだが、「腹ふり」を行うことによって人々は真正世界へ脱出できると説くのである。赤瀬川原平のあの“缶詰のラベル”のように、彼らはこの世界はじつに巨大な条虫の胎内にあってこの世界で起こることすべてが無意味であるという。すなわち、彼らの願いは条虫の胎外、真実・真正の世界への脱出であり、その脱出口はただひとつ条虫の肛門だというからこれはたまらなくシュール。うたがう人はイメージしてみるといい。
「腹ふり」とは一種の舞踊で、足を開いて立って、やや腰を落とす。両手を左右に伸ばして腹を左右に激しく揺すぶる。首を前後左右にがくがくさせ、目を閉じて「ああ」とか「うーん」などと呻く。これを集団で行うというから本当にすごいのだ。また、腹ふり修行の途中で死ぬことを「おへど」というから、オウム真理教の「ポア」が想起される。おそらくはこの前代未聞の事件が意識されることもこの小説の軸になっているといえそうだ。
掛十之進は黒和藩に召し抱えられ流行するとふれまわった「腹ふり党」勢力を抑え込むよう画策するが藩内の複雑な事情もあって、人語を喋る猿のひきいる猿軍団とともに暴動化暴徒化した「腹ふり党」の元幹部もはや教祖となった凶暴な茶山半郎らと闘う構図となっている。こんな展開とても説明できるものではない。
とにかく奇想天外、偏執狂的でパラドクシカルな展開の中にも現代を風刺した鋭い問いを織り交ぜているところがおもしろいのだ。
「あなたがたは権力者を恐れますか。恐れる必要はありません。もし領主、僧、主人、代官、家主、庄屋、親方、親分があなたがたを迫害してもあなたがたは恐れる必要はありません。なぜなら、彼らがあなたがたを迫害した瞬間、おへどとして虚空に排出されるからです。祝いなさい。振りなさい」
「うおお」群衆が再度、歓声を上げると同時に、どんどんどんどんどんどんどんどん。どんどんどんどんどんどんどんどん。太鼓の拍子が切迫、人々は狂ったように腹をふりはじめた。こうなると勢いは止まらない。(本文p200)
茶山半郎の掛け声とともに民衆はバカになった勢いで街をめちゃくちゃにするのだ。このように発想と展開の自在性とともにやはり文体のリズムと圧倒的な筆力がすごい。それは本当にほんとうに見事なのであります。
夢想と現実が錯綜する世界『その姿の消し方』(堀江敏幸著 新潮社) 2017/1/20
もの静かで繊細、そのうえ美しくも知的な時間の流れを感じさせる独特の文体。
まさしく堀江文学のエスプリが随所に感じとれる短編集で、巻末の初出一覧をみると主に「新潮」「yomyom」「文學界」などに2010年から5年間かけて発表したものらしい。
フランス留学時代、古物市で手に入れた、1938年の消印のある古い絵はがき。廃屋と朽ちた四輪馬車の写真の裏に書かれた謎めいた十行の詩。
引き揚げられた木箱の夢
想は千尋の底海の底蒼と
闇の交わる蔀。二五〇年
前のきみがきみの瞳に似
せて吹いた色硝子の錘を
一杯に詰めて、箱は箱で
なく臓器として群青色の
血をめぐらせながら、波
打つ格子の裏で影を生ま
ない緑の光を捕らえる口
あるいは、また・・・
遠い隣人に差しだす穫れ
たての林檎。の芯に宿る
シードルのコルク栓。固
く身をよじる円筒の縞に
流れる息、吐く吐かない
吐く息を吸わない吸う息
を吐かないきみの、太古
の風。巨大草食獣の浴び
た風がいまも吹く丘の麓
にいまもなお吹き過ぎる
戦乱の20世紀前半を生きたアンドレ・ルーシェなる会計検査官の詩と交差するように現在を生きる「私」。本著はこの「詩人」の影を追うように展開される仕組みとなっている。
消えた町、消えた人物、消えた言葉は、…(略)永遠に欠けたままではなく、継続的に感じとれる他の人々の気配によって補完できるのではないかといまは思いはじめている。視覚がとらえた一枚の画像の色の濃淡、光の強弱が、不在をむしろ「そこにあった存在」として際立たせる。(本文p121)
したがって、人の記憶や思惑は様々な新しいドラマを生成することになる。まさしく、堀江敏幸ならではの独特の文体とスタイルといえるだろう。読んでいて本当に不思議な時間体験をしているようで心地いいのだ。著者は『回送電車』で自らの文学にふれ、その立脚点について主義とも宣言ともいえる次のようなおもしろい発言(回送電車宣言)をされている。
・・・特急でも準急でも各駅でもない幻の電車。そんな回送電車の位置取りは、じつは私が漠然と夢見ている文学の理想としての、《居候》的な身分にほど近い。評論や小説やエッセイ等の諸領域を横断する散文の呼吸。複数のジャンルのなかを単独で生き抜くなどという傲慢な態度からははるかに遠く、それぞれに定められた役割のあいだを縫って、なんとなく余裕のありそうなそぶりを見せるこの間の抜けたダンディズムこそ《居候》の本質であり、回送電車の特質なのだ・・・と。
ところで、本著において堀江さんははじめて「夢想」という表現をされていますが、とても新鮮な気がしました。たしかに、これまでにもふと知り合った人物や偶然手にしたもの、実在する写真家や作家のエピソードと著者自身の記憶を辿るようにパラドクシカルな展開が不思議な地平に誘ってくれていますが「夢想」と規定される言葉ではなかったように思います。
本著ではまさしく「夢想」するように、ふとしたことから古物市で手にした一枚の“絵はがき”がきっかけとなって、記憶を引きずるようにパラドクシカルな思惑と現実が錯綜する独特の世界が広がっています。
どうぞ、この不思議な読書体験、心地いい時間体験をお楽しみください。
この世界の片隅に 2016.12.07
映画『この世界の片隅に』(片渕須直監督脚本作品)はとてもいい作品だった。ひさしぶりに広島の八丁座でみたのだが火曜日にもかかわらず昼間でも多くの観客の入りに驚いた。
この作品の舞台が広島であることだけでなく、今の世界の動向が経済的にも政治的にも戦後70年の民主化の反動ともとれる排外的で不寛容な右傾化を意識し、この作品によせる特別な思いをもつ人が多かったということなのだろうか。
なるほど、この作品では時代考証や背景、人々の日常そのものが徹底した調査と裏づけ、さらに多くの関係者の協力によって丁寧につくられたことがよく分かる。
ものがたりは広島の江波に生まれた浦野すず(18歳)が呉市の北條家に嫁ぐところからはじまる。いうまでもなく当時の呉市は戦艦大和の母港、日本海軍の一大拠点で軍港の街として栄えた。小さなころから絵を描くのが好きで、そのことで幼なじみとのエピソードも描かれているが、北條家では優しい両親と海軍勤務の文官・周作のもとで近所の人々にささえられながら一生懸命に生きていく。その家に出戻ってきた義理の姉・径子は厳しかったが、かわいらしいその娘・晴美をよくかわいがった。
物資が乏しくなり配給も減っていく中、すずは工夫を凝らして食卓をにぎわせ衣服をつくり直し、好きな絵を描く。あるとき、その絵が憲兵にみつかって大さわぎになる。
そのほか、道に迷い遊郭街に迷い込んで遊女のリンと出会ったり、重巡洋艦「青葉」の水兵になった同級生の水原哲が訪ねてきて夫の周作とともに複雑な想いを抱えたりする。
戦争はますますはげしくなり、軍港の街・呉市は米軍の大空襲を受け壊滅的に破壊される。晴美を連れていたすずは街中でその爆弾に吹き飛ばされ自ら右手を失い晴美を死なせる。
そして、昭和20年の夏広島に原子爆弾が投下されすずたちは玉音放送を拝聴するのだった。
日本は戦争に敗けた。広島の妹は被爆、父も母も失ったすずは、それでも北條家で懸命に生きていくことになる。
この作品ではアニメーション映画という手法も効果的で、たとえば『野火』(塚本晋也主演監督作品)のような生々しい戦争の悲惨さとその実態を描くというよりも、むしろ日々の暮らしを一生懸命に生きることの尊さ、美しさ、健気さが見事に描き出されている。そのことは片渕須直監督が説明するように「戦争の最中であるがゆえに、ふつうの日常生活を営むことの切実な愛しさが眺められる。」ということなのかもしれない。
それゆえに、すずの声を演じた女優のんはその意図をみごとに演じてみせたといっていい。
戦中のこの期間を「異胎の時代」というかもしれないが日常を生きた人々はこの戦争をどのように感じ理解していたのか、とぼくはいつも思う。戦死した者の遺骨がかえされ敗戦が目の前にあっても、召集令状を受け取って「おめでとう」と送り出すことの現実をどうとらえていたのかと思う。
まだ、そういう作品をみたことはないが、この国が戦後70年をすぎて国会での論議をつくすこともなく強行採決し、平和憲法を無視するように戦争のできる国になろうとする現状を重ねてみれば、これを異胎といえるほど特別な事態とは思えない。
つまり、今の政権がこれだけ高く支持されるということは、すずが戦禍の中で一生懸命生きた昔も今も何一つ変わってはいないのではないか、とやりきれない気持ちにさえなってくる。
けだし、この映画はぼくたちの日常について考えさせ、豊かさ、美しさ、その尊い生きざまについて考えさせる感動的で傑出した作品といえるのではないか、エンディングの感動と充足感がそのことを証明している。
文学への覚悟と決意 『額の中の街』(岩瀬城子著 理論社) 2016/10/24
久しぶりにこの本を読み直してみた。1984年が初版とあるから32年ぶりということになる。それというのも当時34歳になるこの著者が作家としての立ち位置を決定づけるほどの覚悟と決意を感じさせたという強烈な印象をもっていたからかもしれない。
尚子、14歳、父アメリカ人。弟からの手紙、母の再婚の兆し、友の妊娠、街の女の死・・・・ 多感な少女の思春期を鮮烈に描く。
本著に添えられたこの帯をみたときのインパクトは本当に衝撃的だった。それはセンセーショナルで凄みすら覚えるほどの感動と衝撃をぼくたちに与えた。その後、この作家の著作にふれることは多々あったのだが、本著『額の中の街』には基地の街に存在する混沌と殺伐とした情景にかさねてそこに住む人々特有の複雑な心情が生々しく描かれていて、それは緊張感と広がりを感じさせると同時に力強さと臨場感をもつという点できわだっていたと記憶している。それゆえに、単にひとりの少女の成長物語として括られるものではなく、いわゆる児童文学のカテゴリーにおさまりきらない不思議な魅力を感じさせるところがあった。
あらためて、いま読み直してみるとその印象はますます強くなるばかりで、そのことは殆んど確信的にさえなってきた。
それにしてもこの本が児童書として出版されたことを思えば、それこそまさしく驚嘆に値することかもしれない。出版された当時の話題もおそらくそのことばかりになっていたように思われるけれど、いまから考えてみればそれは本当に感動的であり不幸なできごとというほかない。なぜなら、その後の状況をかるく振り返ってみるとよく分かる。
たとえば、『蹴りたい背中』が2007年に出版されたことだけでも、本著はまさしく20年早すぎた作品といえそうな気がしてくるのだ。それはつまり、児童文学という秤(はかり)で秤きれる代物ではなかったというべきかもしれない。だれを対象にしたものか、児童文学といえるのか、その概念や規定さえ不透明なままそのことだけが話題にされたように思う。
ここでは、物語の中心となる尚子の成長と少女の現在が描かれているようでありながら、必然的といえるほど米軍基地を抱える街それ自体の現在をもほとんど等価なものとして描かれていることがよく分かる。
けだし、この作家を創作へと突き動かしている熱気のようなものが例えば取材等々による知識や情報という後天的なものではなく、もはや血肉となった性(さが)ともいうべき感覚に動機づけられているといっていい。この作品に緊張感と広がり、さらに臨場感と力強さが読みとれる不思議な魅力を感じる所以がそこにあるのではないか、ぼくはそう思う。
やあ、スージィ。元気かい。まさかボクのこと忘れてしまっちゃいないだろ。こんな、ちゃんとした手紙を書くのは初めてなので、びっくりしているんじゃないのか。ボクは元気でやっている。ボクはスージィやママのことは忘れちゃいないよ。ボクのともだち(フレッドとマーク)は、はじめぜんぜん信じていなかったくせに、いまじゃ、二ホンに行くときゃ一緒だぜ、と言っている。二ホンに姉さんと母さんが住んでいるなんて、カッコイイとも言ったよ。・・・・略(本文p3)
自分は昔、スージィと呼ばれ、この弟と暮らしていたことがある・・・・それはずっと昔、何十年も昔のことのようだ。記憶は干涸びていて母親が話す子供時代の話のように、ぼんやりとした現実感しかよびおこさなかった。尚子は引き出しをさぐって、白い額に入った弟の写真を取りだした。額のガラスが埃で曇っている。手の平で埃をぬぐい、鼻を近づけてみた。なんのにおいもしない。ガラスの内側に小さな水滴がいくつもついていた。・・・・・(本文p5)
ティムと同じアメリカ人の父をもつ姉スージィの尚子は、二ホンという国で母とともに“基地の街”でニホン人のふりをして生きると決めて暮らしているのだが、シリアスで混沌とした現実に戸惑いながら成長する複雑な状況が生々しい迫力で描かれている。また、“額の中の街”すなわちアメリカに暮らす弟ティムとの間で交わされる手紙のやりとりもきわめて効果的に作用しているように思う。
母は黙々と肉を口に運んでいた。少しも楽しそうではない。尚子にはときどき、母が楽しくないことばかりしているようにみえる。見くだしているくせに若いヘイタイと遊び、あとで必ず硬くてまずいと文句を言うくせに軍隊のクラブで肉を食べている。母の求めているものが尚子にはわからなかった。・・・・・(本文p51)
巨大な黒い鳥が尚子の目の前を滑走し、空へと舞い上がっていった。尻から火を噴きながら、ゆっくりと暗い空めざして飛び立ち、そのまま闇を突き進んでいった。尚子は、体を起こそうともしない母の傍にしゃがみ込むと、暗がりの中に立っている男の影を見上げた。影は、ふん、と嘲るように笑った。「穢ねぇ親子だなあ。うす穢なくて付き合っていられないよ。てめぇらのような、盛りのついたメス犬の親子の食い物にされちゃかなわないよ」怒ったような声だった。「いいか、これでなくてもオレたちは汚いアジアの国の、てめぇらみたいなアジア人を助けるためにかりだされて来ているんだぜ。それだけで充分憂鬱なんだよ。・・・・略」
男が立ち去ると、尚子は母を助け起こそうと手を差し出した。母は邪険にその手を払いのけた。「この馬鹿、あたしを馬鹿にするんじゃないよ」それが男に向けられたものなのか、尚子に向けられたものなのか、尚子にはわからなかった。(本文p108)
混沌の中で揺れうごく基地の街に生きる人々の複雑な心情、ひとりの少女の眼をとおして描いた現代社会が直面する今日的な諸問題、その現実をかくもリアルに臨場感をもって描いた作品があるだろうか。研ぎすまされた感性とも性(さが)ともいうべき文学への意志と覚悟が感じとれる傑出した小説といえる。
ジャクソン・ポロック 2016.10.12
アメリカの美術について考えるとき重要なエポックメーカーとしてこの作家を見逃すことはできない。とりわけ、戦後のアメリカ美術において抽象表現主義にいたる前段階を駆け抜けたアクションペインティングをアシール・ゴーキーやデ・クーニングとともに達成した功績はアメリカ美術の大きなターニングポイントであったことを否定する人はいない。
ポロックのドリッピング絵画が原住民アメリカインディアンの砂絵にヒントを得たかどうかは知らないけれど、この手法が理論的にもそれまでの抽象絵画とは異なるアクションペインティングのあり方を完全な様式として体現したものであることは間違いない。また、ドリッピング絵画はオートマティズムという絵画表現における主知的な方法論とは別次元のいわば自然現象ともいえる均質空間を成立させオプティカルな要素も指摘されてきた。
とりわけ、ポロックのドリッピング絵画が壁画と同化するほどの巨大な絵画空間を実現させたこともアメリカの抽象表現主義絵画へ与えた影響は特筆されていいのではないか。
このアーティストのまとまった展覧会を観たのは確か2012年の4月、東京国立近代美術館で行われた「ジャクソン・ポロック展」だがとてもいい展覧会だった。それまでにもいくつかの作品に接する機会は何回かあったのだが、初期の具象的な作品からブラックポーリングの作品まで堪能することができてうれしかった。
これらの抽象絵画は、世界恐慌の果てに戦後アメリカにおけるニューディール政策WPA(連邦美術計画)の一環として、アーティストがメキシコの壁画制作やポスター制作など公共事業の仕事を得たことに起因するともいわれている。この仕事にポロックやデ・クーニング、ロスコやガストンら多くの若いアーティストたちが参加したという事実から察してもこれを偶然とはいえそうにない。
一方、ヨーロッパから亡命してきたキュビズムやシュールリアリズムのアーティストたちの影響もけっして無視することはできないだろう。戦後アメリカが世界の大国へと成長し発展していく中で、世界美術の主導権を手にする条件は状況的にみてもすべて整っていたといっていい。
その頃、日本では関西の神戸を中心に誕生した吉原治良や白髪一雄らの「具体」、ヨーロッパでは「アンフォルメル」といった絵画運動が吹き荒れていた。
一方、ネオダダといわれたジャスパージョーンズやラウシェンバーグらの台頭からアメリカ美術の動向は時代の流れと重なるように産業社会の構造的変化とともにポップアートへと展開され、ポップの申し子アンディ・ウォーホールへと受け継がれることになった。
ここで、あらためてポロックに注目してみよう。ジャクソン・ポロックはドラッグかアルコールが原因だったか定かではないが、自ら自動車を運転中フルスピードで激突し44歳の若さで即死したという。1956年の悲劇だった。
アンドレ・ブルドンによってシュール宣言がなされたのが1924年、日本の具体美術宣言が1954年、その宣言では同時代のあらゆる絵画が全否定され、ただプリミティヴアートの可能性にはやや肯定的な眼が向けられている。同時にヨーロッパではアンフォルメル運動による非具象的な絵画の動向が注目されていたのだった。ジャクソン・ポロックはそういう時代のエポックとなった先駆的なアーティストだといえる。