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そのほか そのⅥ

影と翳りの思想 陰影礼賛(谷崎潤一郎著 中公文庫)  2021.10.12

 

本著は日本文化の奥底に流れている美意識や価値観、生活風習といった作法などについて考察する六つの随筆をまとめた謂わば日本文化応援歌とでもいった随筆集となっていて大変おもしろい。

表題となった「陰翳礼賛」では光と影によって形成される影と陰翳について、西洋文化にはみられない独自の広がりをもつ日本文化の奥深い美意識や思想へと誘う著者ならでは鋭い洞察と知見に基づく見事な文章となっている。

内田百鬼園先生もそうだったが、どういうわけかこの時代(明治)の作家というのは西洋啓蒙主義への反動なのか、日本文化への美意識と価値といったものに揺るぎない自信のようなものが感じられて心地いい。今どきのSNSの投稿などとちがって、それは滑稽さをともなうほど堂々としていて痛快なのである。

西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないという風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰翳の謎を解しないからである。(p32)

もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光と蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。(p34)

さらに、この陰翳の謎解きは日本の能楽や歌舞伎文化と作法にまで言及する著者ならではの文化論となっていてきわめて説得力がある。そして、自身の文学への宣言とも決意表明ともいえるこのような文章で結んでいるところがいい。

私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の軒を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合いなるか、試しに電燈を消してみることだ。(p65)

まことに洒落の利いた文章なのだが、凄みすら感じさせる揺るぎない自信に満ちあふれているところが痛快なのである。

 

「懶惰の説」にしてもそうだ。いうなれば自己肯定のきわみといえばその通りかもしれないが、それ故に読んでいてなんとなく愉快に思えてくるから不思議である。

文化の進んだ人種ほど歯の手入れを大切にする。歯列の美しさ如何に依ってその種族の文明の程度が推し測られると云う。それがほんとうなら、歯科医学の最も進歩したアメリカこそは世界一の文明国であり、かのわざとらしい無意味なる笑顔を作る俳優たちは、「己はこの通り文明人だぞ」と云うところを誇示しているのかも知れない。(p78)

さらに、このように続くのだから滑稽さを通り越してなんだか愉快な気分になってくる。

今日われわれが悩んでいる二重生活の矛盾と云うことも、衣食住の様式と云ったような末節の点にあるのではなく、その由来するところはもっと眼に見えない深い原因に依るのだと思う。つまりわれわれは絶対に畳のない家に住み、朝から晩まで洋服を着、洋食を食うように努めてみても、なかなかそれが続けられないで、しまいには洋室に火鉢を持ち込んだり絨毯の上へすわったりするようになるのは、やはり何と云っても東洋人の持ち前たる「ふしだら」や「億劫がり」が心の奥に根を張っているからである。(p83)

これほどの大文豪がこのような言い訳めいた文章で括るところがまことに洒落が利いていておもしろいのだ。

誤解をされては困るが、私は決して怠け者になることを諸君にすすめる次第ではない。(略)

正直のところ、そう云う私自身が実はそんなに怠け者ではなく、まずわれわれの仲間うちでは勉強家の方であることは、友人諸氏が証明してくれるであろう。(p88)

これは昭和五年四月十日記とある。いうなれば「痴人の愛」「刺青」「細雪」「春琴抄」の作者のイメージとはかけ離れたこのノー天気ぶりも滑稽なのだが、この知見とユーモアのセンスにあふれた《影と翳りの思想》には驚嘆するばかりである。

このほか「恋愛および色情」「客ぎらい」「旅のいろいろ」「画のいろいろ」とつづくのだが、「恋愛および色情」では文学における恋愛ものの扱いから女性の地位をめぐり、西洋のそれとは決定的に異なる江戸期から平安朝の文学へ遡って愉快な論考を企てるのだ。

左様にわれわれの伝統は、恋愛の藝術を認めない訳ではないが、--内心は大いに感心もし、こっそりそう云う作品を享楽したことも事実であるが、--うわべはなるべくそ知らぬ風を装ったのである。それがわれわれの慎みであり、誰云うとなく社会的礼儀になっていたのである。だから歌麿や豊国を担ぎ出した西洋人は、このわれわれの暗黙の礼儀を破ったのであると云えなくもない。(p99)

 

ならば、恋愛文学が旺盛を極めた平安朝はどうか?日本の文学史にもああ云う時代があったではないか?江戸期の戯作者は卑しめられたかも知れないが業平や和泉式部のような歌人はどうか?源氏物語はどうか?彼等やその作品が受けた待遇はどうだったか?とさらに解析はつづく。だが、当然のことながら経済組織や社会組織における女性の地位ではなく、男が女の映像の内に「自分以上のもの」「より気高いもの」を感じていることは確かだとしている。さらに、西洋の騎士道においては、武人の忠誠と崇拝の標的は「女性」にあったとし、彼等はその尊敬する婦人のために高められ、引き上げられ、励まされ、勇気づけられたというのだが、、、

精神にも「崇高なる精神」と云うものがある如く、肉体にも「崇高なる肉体」と云うものがあると。しかも日本の女性にはかかる肉体を持つ者が甚だ少く、あってもその寿命が非常に短い。西洋の婦人が女性美の極致に達する平均年齢は、三十一二歳、――即ち結婚後の数年間であると云うが、日本においては、十八九からせいぜい二十四五歳までの処女の間にこそ、稀に・・・(p113)

と、揺るぎない自信を持って断言する。さらに徳川家康の逸話から日本人の性生活へと発展し、ついには西洋人並みの強壮な肉体を持つようになっても、果たして彼等のようにあくどい婬楽に堪えられるかと疑問視している。つまり、このことは体質と云うよりも、気候、風土、食物、住居などの条件に制約される所が多いのではないかと執拗に拘りつづけ思いがけない展開をみせていく。

貝原益軒が白昼に房事をすることを勧めているのは、日本のような風土においては列に健康な方法であって、そうして一編晴ればれとした日の目を見、風呂でも浴びてそこらを散歩して来れば、憂鬱な身分に陥ることも少く疲労も早く癒える訳だが、いかんせん普通の民家の間取りでは密閉し得る部屋と云うものがないのだから、これもなかなか云うべくして行い難いことになる。(p123)

と、まぁこのように一つ一つを紹介したくなるのだが、凄みすら感じさせる随筆の数々きりがないのでこのくらいにして、あとは是非とも手に取ってご堪能あれと致しましょう。

 

国体への幻想 「日本のいちばん長い日」(半藤一利著 文春文庫)2021.9.23

  

徹底抗戦か全面降伏か、一億玉砕だ!!

ポツダム宣言の受諾をめぐる天皇陛下の聖断、政権指導部と軍部の葛藤を綿密な取材と証言にもとづいて〈日本のいちばん長い日〉として画いたノンフィクション。

半藤一利さんのデビュー作となるこの本は、当初はいろいろな事情から大宅壮一編と当代一のジャーナリストの名を冠して刊行され、東宝により映画化されたこともあり多くの人に読まれたという。その後、決定版として再発行するに際し、文芸春秋を退社し〈ひとり人立ち〉した記念にと亡き大宅壮一夫人の昌さんの了解を得て半藤一利著とさせていただいたとある。

まさに映像を見るような凄まじい臨場感は膨大な調査と取材の賜物でありそれこそ圧倒的で鬼気迫るものがある。

事態はきわめて切迫していて一刻の猶予もなく、政権中枢部の思惑は国体護持という条件で一致していたが連合軍との確約は何処にもなかった。日本はそれこそドイツのように東西に分断されそうな瀬戸際にあったのかもしれない。

どのようにして日本は敗戦を認めポツダム宣言を受諾することを国民に受け入れてもらうかと御前会議がもたされる。結局、天皇陛下のお言葉として事前に収録されたものを8月15日正午に放送されることが決められる。だが、軍部とりわけ陸軍青年将校らは決起し徹底抗戦を叫びクーデターを決行するのだが、間一髪のところで断念せざるを得なかった。阿南陸相の自決をはじめ多くの叛乱軍が無念の自死を遂げることになる。

やがて、12時の玉音放送がはじまるのだがそれまでの経緯、叛乱軍の制圧、鈴木総理大臣のほか政府要人や侍従らの護衛、収録された音源の確保といった宮城を舞台とする〈日本のいちばん長い日〉がはじまる。

次々と重要文書が燃やされ処分されていくのを眺めながら彼らはいったい何を考えていたのだろう。

 

井田中佐は、絶望で涸渇した精神のなかに活力の一滴を見出した。重要なことはわれわれが一体となり美しく滅んでゆくということだ、と中佐は思いつめた。こうした死の統一によって困難な時代を乗りこえてゆくことができようし、神州不滅に確信をもつことができるであろう。承詔必謹というような美名による卑怯な敗戦とはちがい、日本敗北の意味は巨大となるであろう。(p109)

 

今になって思えばまことに滑稽にさえみえる軍部のこの原動とは何だったのだろうか、とあらためて考えさせられる。いつだったか大津島の特攻隊、回天(人間魚雷)基地を訪ねたときもその惨すぎる多くの資料と基地跡を前にして複雑な感情を抑えることができなかった。靖国神社の遊就館を訪ねたときもそうだった。名状しがたいあの独特の雰囲気はどこに起因しているのだろう。ここに共通するあの異様さは何か、何があれほどまでに若者を奮い立たせ決起させたかといえば、それはやはり国体への幻想、天皇を中心とした国体観ということではなかったか、ぼくはそう思う。

ポツダム宣言の受諾すなわち日本は戦争に敗け全面降伏するしかなくなったとしても、やはりこの国の精神をささえた実在としての国体のイメージが国民のアイデンティティとともに最大の問題となった。

もともと竹下中佐、井田中佐、畑中少佐の三人は東大教授平泉澄博士の直門として昭和十年ごろよりずっと兄弟弟子の関係にあった。彼らは平泉博士より、自然発生的な実在としての国体観を学んでいた。一言でいえば、建国いらい、日本は君臣の分の定まること天地のごとく自然に生まれたものであり、これを正しく守ることを忠といい、万物の所有はみな天皇に帰するがゆえに、国民はひとしく報恩感謝の精神に生き、天皇を現人神として一君万民の結合を遂げる―これが日本の国体の精華であると、彼らは確信しているのである。(p178)

・・・略) 彼らの考えるところでは、戦争はひとり軍人だけがするのではなく、君臣一如、全国民にて最後のひとりになるまで、降伏するということは、かえって国体を破壊することであり、すなわち革命的行為となると結論し、これを阻止することこそ、国体にもっとも忠なのである、と信じた。(p178)

 

おそらくこれが彼らの大義となっていたと考えられる。彼らは森師団長を説き伏せ決行を促すが偶然のいたずらか思い違いか、事件はあっという間に起きた。井田中佐が隣の参謀長室にいたとき師団長を撃ち抜き斬りつけた。

 

― 井田中佐はとっさにそうした事のなりゆきをみてとった。そして井田中佐を観た、わずかにのぞかれた師団長室を。血の海で、その中に森師団長と白石中佐の死体が重なるようにうつぶしていた。そしてそれを見下ろすように、椎崎中佐が呆然とし、椅子に腰をかけている。ほかに二人の興奮した将校の姿が・・・。叛乱がはじまった!(p210)

 

だが、井田中佐、畑中少佐ら叛乱軍の思惑ははずれ、東部軍の理解は得られず彼らは宮城に籠城したまま外部との連絡を遮断したまま孤立していった。

 

「畑中、もういかんよ。東部軍は冷却しきって、まったく起つ気配はない。これ以上、宮城籠城はおぼつかないことだ。失敗とあきらめて兵をひけ。もしこのまま籠城をつづければ、国家非常事態を前に、東部軍との一戦は必至となるぞ」(p240)

 

井田中佐の忠告にも血気盛んな畑中少佐は「一戦おそるるに足らずです」と抵抗するが「馬鹿をいえッ」と一喝される。

畑中少佐に兵を引けと説き、その足で陸相官邸を訪ねた井田中佐は竹下中佐とともに切腹直前の陸相を前にして自制心を失い涙にくれたという。もはやクーデターも陰謀もあったものではなかった。

宮城から追放された畑中少佐は少尉と兵二人をつれて放送会館へ乗りこみ、陸軍ではなく国民を相手に放送手段で訴えようとするが、東部軍の許可なしではできないと拒否される。

やがて、東部軍司令官が暴動鎮圧に乗りだし叛乱軍は制圧されていく。

 

その朝はギラギラとした太陽を、さまざまな人が、いろいろなところで、それぞれの感慨をもって仰ぎみた。(p307)

 

天皇放送に関係のないすべての番組は消され、報道の時間には正午から天皇放送がある旨がくり返し流され、多くの国民は玉音放送を待つばかりとなっていた。こうして満州事変にはじまった第二次世界大戦は終焉をむかえ、大日本帝国は“歴史”と化してしまった。

エピローグでは歴史の最後の一ページで重要な役割を演じた人たちの、それぞれのその後についていくつかのエピソードが記述されているけれど、多くの軍関係者は死に場所を求め宮城前で死を遂げた人もあったという。

本著は8月15日正午の玉音放送までの24時間の推移、その葛藤と激動の詳細を徹底した取材と調査によって画いたドキュメントであり半藤さん渾身の一冊といえる。

『大東亜戦争終結ノ詔書』原文(昭和20年8月14日)

 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル

而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ

惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム

宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ

試論・共生への意志 大衆の反逆(オルテガ著 岩波文庫)2021.8.31

オルテガ・イ・ガセットの名著『大衆の反逆』、本著は80年も前に刊行されたものだが第一次世界大戦後、アメリカ・ロシアが台頭するなかで同時代に蔓延するヨーロッパ人の無自覚で泰平的なふるまいに対して警鐘を鳴らすオルテガ渾身の著といえる。

それは大衆が社会勢力の中心的存在となっている状況に対して、社会的政治的文化的な危機意識と同時に西欧文明の歴史と権力のあり方について詳細な分析を企てるとともに強いメッセージと鋭いまなざしで切り込む時代批判の精神に貫かれている。

それにしてもオルテガが現代のSNSネット社会を想定していたとも思えないが、そのリアリティは新型コロナ感染拡大に喘ぐ現代社会の様相とみごとに一致しているように思えるのはどういうことだろう。本著でオルテガが提起した問題意識はそのことをさらに意識させる。

オルテガは「大衆の反逆」の刊行に遡ること9年、1921年には「無脊椎のスペイン」という重要な著作を刊行している。ここでいう無脊椎とはまさしく大衆そのものであることは容易に想像できるのだが、そもそも大衆とは何か、その反逆とは何を意味しているのだろう。

 

資本主義の終焉というべきか今日の新自由主義とグローバリズムはその末期的症状のようでもあり、きわめて必然的な結果といえないだろうか。それこそトランプ政権やアベ・スガ政権の誕生を招いた反知性主義の台頭こそオルテガの指摘する大衆とみごとに重なってくるのだ。

つまり、眼前の利益や快楽にならされるように自らの意志をもつこともなく場当たり的にふるまう大衆が社会的権力の中心に躍り出たことに危機感をもって注意を促している。

彼らは歴史に学ぶことをしない。それゆえに、個体を超えた英知に学ぶことをしない。彼らは今ある自由を手にするまでにどれほどの歴史を必要としたかその事実を知ることもなく、自らに与えられた特権のようにふるまうだけの根なし草のような《満足しきったお坊ちゃん》のようだとオルテガは主張するのだ。

本著は1930年刊行の本文「大衆の反逆」に加えて、「フランス人のためのプロローグ」と「イギリス人のためのエピローグ」をその前後に収録して2020年に岩波文庫から刊行されたもので、訳者は佐々木孝さん。佐々木氏が亡くなる5日前に息子佐々木淳氏に託されたこの遺稿はそういう経緯で刊行されたことが「訳者あとがきに代えて」記載されている。

オルテガは「フランス人のためのプロローグ」で本論の方法としてこのように記している。

実例として、一つの基本的な問題を示せば充分であると考えた。つまり私は、現代の平均人を、近代文明を継続させる能力、そして文化へのこだわりという一点で測定したということである。(P58)

1930年前後、アメリカとロシアの台頭を意識しながらもヨーロッパ人はインフレ景気に満足し安心しきっていたし、日本は朝鮮半島を統治下におさめイタリアでは独裁政権、ドイツではヒトラーのナチ政権の誕生をまつばかりとなっていた。オルテガは貴族という概念をとりあげ無自覚な大衆についてこのようにいう。

高貴さは、要請によって、つまり権利ではなく義務によって規定される。これこそ貴族の義務である。「好き勝手に生きること、これは平民の生き方だ。すなわち貴族は秩序と法を希求する」(ゲーテ)。(P137)

つまり、「貴族」という言葉の固有の意味すなわち語源にある核は、本質的に動的なものであり、万人共通の権利としてやりとりされる静的な資格などではないのだとしている。

高貴な人とは、「周知の人」、つまり誰もが知っている、無名の大衆の上に際立って知られるようになった有名な人を意味している。そこに含意されているのは、名声をもたらすまでのとてつもない努力である。つまり高貴は克己勉励もしくは卓越した人に相当する。(P139)

このように「貴族」の努力、克己勉励に卓越した人その高貴さにふれ、いかにも大衆の無自覚で場当たり的な快楽に同調するだけの無自覚な態度を批判する。そしてこのように続けている。

ここで思い起こしてほしいのは、過去のいかなる時代にあっても、大衆が何らかの理由から社会生活において活動した時は、常に「直接行動」の形であったということである。つまりそれが大衆には常に自然な行動様式だったということだ。社会生活における大衆の指導的介入がいまや偶発的で稀なものから通常のものとなって、公然と認可された規範として現れたという明らかな事実は、本試論の主張を強力に裏付けてくれる。(P154)

また、文明は何よりも先ず共生への意志であるとして、政治の分野でも最も高慢な共生への意志を示した形式は自由主義的デモクラシーであるとしている。つまり、他者を考慮するという決意を究極まで追及したものであり、社会的権力は全能でありながらも自身を制限し少数の人たちが生きる場所を残す。このことは現代の寛容さや多様性、立憲主義、死者に学ぶという個体を超えた保守のあり方を考えさせる。

福島の原発事故や水俣だけでなくコロナ感染症において「専門家とは何か」という議論があったけれど、オルテガの主張は科学者や専門家にもおよび、専門家の中にも大衆化していわゆる「お坊ちゃん」がいるとして、彼らこそが大衆の典型であり野蛮なのだという。

本論は二部構成となっていて「大衆の反逆」に加えて、「世界を支配しているのは誰か」と続く。大衆の反逆は人類の根源的な道徳的退廃以外の何ものでもないが、二部では別の新しい視点からそのことについて考察する。そして「国家とは何か」として、ヨーロッパの歴史と文化的変遷についてさらに哲学的考察からヨーロッパの将来像を企てる。

もう一度繰り返そう。私たちが国家と呼ぶ現実は、血の同一性によって結びつけられた人間たちの、自然発生的な共存などではないのだ。生まれつき分離していた集団が共存を義務づけられたときに、国家が始まる。(P279)

このことは、おそらくオルテガの祖国スペイン、イタリア、ドイツ、ヨーロッパに忍び寄る不穏な足音を意識してか、誰もが知っているとしてルナンの言葉を引用しながら国民国家という概念を超えたヨーロッパの統一、その将来像についてその切実な思いを伝えようとしている。

この哲学者の鬼気迫るその論考は現代社会が抱えた様々な問題を浮き彫りにし、今になってもそのリアリティは強大になるばかりで否応なくぼくたちの感覚に突き刺さってくる。今こそ必見の一冊といえるのではないか。

 

 

メソッド・利他 「利他」とは何か(集英社文庫)2021.4.15

 

 

利他とは何か。本著は東京工業大学の「未来の人類研究センター」における「利他プロジェクト」の可能性を考える五人の研究者による論考をコンパクトに紹介したものである。いうなれば、コロナ禍において世界が直面する今日の危機的状況を克服するキーワードとして注目される「利他」という思想的可能性をさぐる試みといえそうだ。
サンデル教授の白熱教室やアメリア・アレナスの鑑賞学ではないけれど、あえて異分野の論客による視点から「利他」を考えることで、たとえば「うつわになること」のようなイメージが成立してくるのがおもしろかった。
たとえば、「利己」の対立概念としての「利他」が因果を背景にしてメビウスの輪のようにつながっているとすれば「利他」は可能性として自己(意志)を超えた地平で生成される現象(効果)とみることができる。そういう意味ではこのプロジェクトの試み自体が利他的な可能性を孕んだものとしてたいへん興味深く思えてくる。
いうなれば、形而上学や身体論、表現論とも連動する現象学的なイメージもあるけれど、この「メソッド利他」にはコロナ禍に直面した現代社会のあり方のみならず人間という種のあり方を見つめなおす重要なヒントがあるようにも思えてくるから不思議だ。
サラリーマン川柳で「サラリーマン サラリーとったら ボランティア」というおもしろい作品を思いだしたのだがボランティア活動と利他行為はちがうのだろうか。ともに他者のためのおこないではあるけれど手段と目的という点で微妙にちがってくるのだろうか、などといろいろな仮説を立てて読む楽しさもありそうだ。

個人的には若松英輔の柳宗悦論がとてもおもしろかった。彼らの民藝運動そのものが利他的発想を内包し、美藝より工藝が優位に立つとするまなざしにも説得力があった。すなわち用のものとして機能して生成される無為の産物(利他の本質)にこそ美の可能性があるという民藝の発想はおどろきでさえある。つまり、人間の意志を超えた利他の文脈という意味では國分功一郎の中動態にこそ意志と責任に関する哲学的考察の中から可能性を考える作業がクロスしてくる気がしておもしろい。いうなれば、このプロジェクトの異分野の研究者による論考のダイナミズムにこそ「利他」の可能性があると云えるのかもしれない。
このほか、美学者の視点で伊藤亜紗、小説家の視点で磯崎憲一郎、政治学の視点で中島岳志といずれ劣らぬ論客による利他をめぐる重層的な考察がおもしろいのだが、磯崎氏の紹介する小島信夫の「馬」という作品には大いに魅力を感じた。これは直ちに読まなければという気にさせられた。磯崎憲一郎はこの作品について語る村上春樹の解釈を紹介しながら、ここでも作者の思惑(作為=設計図)を超えた出来事に注目している。
中島岳志はおわりに利他の本質を意図的な行為ではなく、人知を超えた「オートマティカルなもの」であり、利他が宿る構造として「うつわ」を想起させるあり方が大切としている。
おもえば、大沢真幸の「個体を超えた共存」や中島自身の個別な理性を超えた中に存在の英知を見出そうすること、つまりは集合的な存在に依拠しながら時代の変化に対応する形で斬進的に改革を進める保守の態度が重なるようでもある。

何はともあれ、いろいろなイメージが広がってくる本であることはまちがいない。まずはご一読を!

 

 

成長する力と感受性 「わたしのあのこあのこのわたし」(PHP研究所)  2021.2 

 

 

前作『ネムノキをきらないで』(2020年、文研出版)は子どもの日常における些細なできごと、とりわけその内面的な気もちの動きを繊細なまなざしでとらえた印象的な作品だった。続けざまに出版されたこの本でも起伏のある場面展開があるわけでもなく、いうなれば変化に乏しいありふれた子どもの日常が描かれているに過ぎない。

だが、このようにそれぞれの家族やクラス内での友だち関係、とりわけ子どもの心の動きと複雑な心理描写を軸にしてその内面的な変化と動きをとおして確認される成長のプロセスと人格的存在それ自体に対峙する児童書は少ない。この作家は何ともそのような《子ども性》に向きあうことを常として危うい尾根道をひとりで歩いている。

ここでは小学5年生の女の子モッチと秋のゆれ動く気もちの描写が生き生きとしたタッチで同じ時間軸において同時進行的に書かれていく。

モッチの家族は父と母と保育園に通う弟の新ちゃんの四人家族。父は会社に勤めているが自宅の書斎で仕事をすることもある。いうなれば比較的裕福な家族ということか。秋は母娘のふたり家族でアパートに住んでいるが、秋が道夫くんとよぶ父親も同じ町に住んでいる。秋は毎月その道夫くんのマンションに行くこともできるし《友だちおじさん》のように会って話すこともできる。つまり、母と父の道夫くんは結婚をしないまま秋を育てている感じ。父は測量の仕事をしながら詩を書いていて、母は結婚式場の仕事をしながら秋とくらしているという少し特殊な(シングルとか別姓とか今日の多様な家族のあり方ともいえる)設定となっている。

 

「こういうのを、とりかえしがつかないことっていうの」うん。モッチは大きくうなずく。どうすればゆるしてもらえるのか、それを早くいってほしい、という顔をしている。わたしの中にじわじわといじわるな気もちがひろがる。それを自分で止められない。「あのね、弁償したいっていわれても困るの。お金でなんとかなるって話じゃないよ」いいながら、大人の言葉をまねているのが自分でもわかった。(本文p43)

 

物語は秋が道夫くんからもらった大切なレコードが傷つけられるという出来事からはじまる。

 

秋ちゃんの怒りがどんどんふくらんでいくのがわかった。秋ちゃんはわたしをゆるしてくれないかもしれない(本文p47)

 

道夫くんのマンションを秋が訪ねたときのことだ。秋はモッチへの怒りだけでなく残念で申し訳ない気もちが入り交じった複雑な思いを道夫くんに話した。

 

「その友だち、あやまったんだろ?」わたしはうなずく。「それでもゆるさなかったの?」わたしはまたうなずく。「ふーん」と道夫くんはいった。わたしは道夫くんを見た。「よくないね」「わかっている」わたしはわかっていた。あんなふうにモッチにいっちゃいけなかった。それはわかっているのに、胸の中のもやもやした気もちは消えなかった。(p67)

 

五年生となれば女の子の友だち関係もかなり複雑で微妙にゆれ動く。他愛のないことでもそれが決定的な状況を招くこともある。いまや社会現象となった「いじめ問題」でさえはっきりとした形はなかなか分かりにくいものだ。

 

わたしはどうしてか、そんなふうに人を観察してしまうようになっていた。(・・・略)木村さんや平岡さんや八田さんはお大沢さんに話を合わせているように見える。竹下さんはモッチと仲よくしたがっているみたいなのに、ほかの子がいっしょになると、いつのまにか大沢さんたちといっしょになってモッチを「しっぽ」と呼んだりしはじめるのだ。(p93-94)

 

たてまえでも本音でもない無自覚なあいまい性とでもいえばいいのか、大人の一般社会でも似たようなことがよくみかけられる。だが、この物語はいわゆるいじめ問題について書かれているのではない。子どもの関係性における心理的な動きとその状況や成長のあり方を日常の中にみつめようとしている。

ほかにも、佐伯くんのことや道に迷った認知症のおばあさんのことなどいくつかのエピソードが盛り込まれているけれど、物語はモッチの両親が留守中に新くんがインフルエンザにかかったことから大きく展開する。

モッチからの電話を受けてかけつけた秋は道夫くんに新くんのようすを伝える。そして、道夫くんの車で病院に連れて行って診てもらうことになる。このことを契機としてふたりの気もちは少しずつ繋がるように変化する。秋は久しぶりにお父さんのことを道夫くんと呼び詩を書いていることや骨董市で買ったレコードをもらったことなど友だちに自然に話せた気がするのだった。

 

わたしには、モッチにいわなきゃいけないことがある、と思った。なにをどういえばいいのかわからなかったけれど、それが胸の底にたまっているのがわかった。(・・・略)モッチの両親にはなぜだか会いたくなかった。胸の底にたまっているものがそう思わせているみたいだった。両親からお礼をいわれたりしちゃいけない気がした。(p154)

 

この物語はレコードに傷がついたことで、いうなれば険悪な気もちになったモッチと秋が仲直りするまでの単純な話のようでありながら、いくつかのエピソードを交えて日々の子どもの内面の移りかわりを繊細なまなざしで捉えるこの作家ならではの筆力で書き上げた傑出した作品といえる。

 

わたしが図書室で図鑑を調べているあいだ、モッチはずっと先生と平岡さんといっしょに白い玉をさがしつづけていたのだ。そんなことをする人はほかにだれもいなかったのに。そしてさっき涙を流したあとで、モッチは平岡さんにほほえむことができるのだ。モッチのことなんて、とわたしは思った。ほんとうはなにもわかっていなかったのかもしれない。わたしはなんだかとてもはずかしい気もちになった。(p181)

 

なるほど、作者のこのまなざしには本当に驚嘆させられるだけでなく、子どもの成長する力と感受性にど肝をぬかれる思いである。岩瀬成子というこの作家なかなかやるな。

 

艶やかで美しい文体 小説伊勢物語業平(高樹のぶ子著 日本経済新聞出版) 2021.1

 

この小説は不朽の名作といわれる日本文学の古典伊勢物語に登場するある男(在原業平といわれている人物)の一代記といってしまえばそれまでだが、奥行きのある平安期の雅で生き生きとした公家文化の有りようと人の世の盛衰を浮き彫りにする普遍的で本質的な問いがあっておもしろい。    

かれこれ7、8年くらい前になるけれど、能楽の「杜若」を鑑賞する機会にめぐまれた。二条の后(高子)と業平が一体となったような杜若の精といわれるシテの幻想的な舞が印象的なすばらしい舞台だった。

いうまでもなくこの小説の中にある「かきつばた」を頭におく歌会において業平が歌った「唐衣着つつ慣れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」を基にした名作で世阿弥の作といわれているものだ。業平といえば色好みで高貴な生まれ、顔立ちも良く六歌仙といわれるほど和歌の道にも秀でた才の持ち主で都人だけでなく広く名の知れた芸術家でアイドル的存在ということになる。  

すでに初冠を済ませた成人男子ではあるけれど、まだ少年のような痛ましさも腰のあたりに纏わり付いていてやはり帝の血は気高く受け継がれていると惚れ惚れするような十五歳の話からこの伊勢物語ははじまっている。

春日野の若紫のすり衣 しのぶのみだれかぎり知られず

父阿保親王の死後、母伊都内親王が都を離れ長岡へと移りすむことになる。長岡は垣武帝の所縁の地、雅心が残されている旧都。憲明らと同道した業平は稲田で戯れているうちくだけた風情の女童らと興じ、紫苑の衣を身に着け背伸びした女童と出会う。

「先ほどの鎌はどこに」とその女童が申すので、「田子に返しました。やはり刈るのは上手ではありません」「あれ、女人をお刈りになるのが、お好きだと聞きましたのに・・・お噂では」紫苑の女の挑みかかる様、業平いよいよ興深く感じ、「わたしが色好みと、どなたからお耳に入りましたやら」と挑み返してみます。(本文p88)

あれにけりあはれ幾世の宿なれや 住むけん人のおとづれもせぬ

業平は長岡の母伊都内親王の徐病と延命のための清水参詣の折り、藤原高子(後の二条の后)との決定的な出会いをする。

「どなたか存じませぬが、あが車の後を参られましたか・・・なればここにて、わたくしの繰・・・」「いかにも耳に入りました。御兄上は、清水詣でをお憎みとか」「・・・はて、どちらの殿人で・・・」「いずれ文など言付けたく」「そのようなもの、要りませぬ。わたくしが欲しいものは、かたちばかりの文ではありませぬ。真心無くても、いかようにも言の葉は操れます」業平は痛いところを突かれました。歌の上手とは、言の葉の操り上手でもあります。「・・・では、何をお求めで」「都のいずれであれ、わたくしが訪ねたい折りに心まかせに訊ね、思うまま、たのしむことです。その願いを清水観音に聞き届けて頂きたく、こうして・・・」(略)「・・・それで姫君は、夜の都に馬を走らせておられますのか・・・いずれかの時、そのような噂を・・・」(本文p156)

並べた車同士、御簾越しとはいえゆされることのない悪態、この二人の出会いはその後の業平の数奇な運命とともに、この恋情は小説の核となる愛とも生への希求ともいえる普遍的な物語として昇華していく。

わが袖は草の庵にあらねども 暮るれば露のやどりなりけり

「わたくしが欲しいものは、かたちばかりの文ではありませぬ。」この高子姫の言葉は、業平の驕る心を砕き、さらなる文への探求を突きつけているように業平には思えるのだった。業平はつぎの歌をおくる。

思ひあらばむぐらの宿に寝もしなん ひしきものには袖をしつつも

情けがあるなら、たとえ葎が生えているひどい住まいでありましても、共寝は出来ますでしょう。高貴なお方ゆえ、読み捨てることをなさらないであろうと、業平なりに思い定めてのことだった。業平の歌はたしかに高子の心を揺さぶるのだった。

母伊都内親王のいる長岡ばかりでなく紀有常の娘で妻(和琴)を訪ねるのも怠りがちになるくらい五条の后邸にいる高子姫への業平の一途な思いは昂るばかりとなる。

ついに、業平は藤原高子の侍女近江の方を介して姫との再会を果たすのだが・・・。

「・・・この暗さゆえ、葎は見えませんでした。このような見事な邸に生え出る葎は、良き香りがするかもしれません」含み笑いの気配がいかにも愛らしく、業平、御簾の内を覗き見したくなります。「葎の宿、草の庵と申すもの、どのようなものか見てみたい。あが君はそのような宿に仮寝されたことがお有ですか」業平、贈った歌を思いだします。(本文p186)

この再会では御簾の内に入ることはゆるされなかったが、待女の近江も高子姫も相当の高い教養の持ち主であることが分かる。それゆえに、業平の恋心は狂おしくなるばかりで翌日もまた、五条の后邸を訪ねる。そればかりか業平のこの一途な思いは噂になるほどにたびかさなることになる。

人知れぬわが通ひ路の関守は 宵よひごとにうちも寝ななん

業平も苦しんでおりましたが、高子姫もまた、やるせなき心地は日々増しておりましたようで。邸の主の順子様のお見逃しがあってのことか、定かには判じられませんが、歌のやり取りのみ許されておりました。(本文p197)

藤原家にとってみれば高子姫は掌中の玉、清和帝への入内を望む良房、基経らはその玉にわずかな傷でもと気にかかる。業平は秩序を乱す危険人物なのだ。

やがて、業平は高子姫との共寝を為しとげ今でいう命がけの《かけおち》を企てるのだが、道中はげしい嵐に遭遇し高子姫を休ませ目をはなした隙に基経らの追手に姫君を連れ戻されてしまう。

業平は京の都を離れ東国へと下るのだが三河国の八橋にて咲き乱れる杜若をみて「・・・歌の上手、業平殿。かきつばた、の五文字を歌の頭に置き、旅の心を詠んで頂きたい。いかがでしょう」と同道する覚行の提案に応じてこの歌を詠む。

から衣きつつなれにしつましあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ

「・・・お見事」と覚行。冒頭の能楽「杜若」の元となる歌だ。

朝廷の使いで諸国を訪れた折々にも業平の恋情恋心は衰えを知らず、伊勢を訪れた折には恬子斎王への思いが昂じ一子を授かる。そのことは後になって知らされるのだが、、、。

すでに二条の后となった御息所高子は業平と再会した後、大原野神社にて翁となった業平に言祝ぎの歌を求める。

大原や小塩の山も今日こそは 神代のことも思ひ出づらめ

業平を、歌詠みとして高く評する御息所高子は間をおかず歌会をひらく。業平は神の代を詠い込む。

ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に水くくるとは

業平、この歌会の成り行きに安堵し、覚悟も致したのです。これからは詩ではなく歌の世にしなくてはならない。それが高子様の望みであり、業平に頼まれたお役目でもあるのだと。叶うことのなかった恋情は、行く末々まで歌の世を、子宝としてこの国に残すのだと。(本文p410)

つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はわざりしを

思わず知らず、伊勢に笑みが浮かび参ります。業平様らしい軽やかな真心と、自らの死さえ面白がっておられる趣の深さに、少しの間、涙を忘れる伊勢でございました。(本文p454)

 

本著は在原業平といわれる人物の生き方と恋情の足跡をとりわけ歌を中心に編纂された歌物語といえるかもしれないが、のちに二条の后清和帝の御母となる藤原高子との出会いと数奇な運命をたどる業平の魅力を生きいきと描いた現代小説となっている。

想像しがたいほどの恋情、歌詠みの才と駆け引き、帝や公家文化とりわけ雅で文化的な歌詠みの社会的ステータス等々、時代考証学術的研究をふまえた本編小説伊勢物語はいうまでもなく著者ご自身の表現であり創作となるけれど艶やかで美しい文体は見事というほかない。

 

 

 

ありふれた日常 『ネムノキを切らないで』(岩瀬成子文 植田真絵 文研出版)2021.1

 

 

本著『ネムノキをきらないで』はこの作家ならではの子どもたちの日常におけるささいな出来事、とりわけその内面的な気もちの動きをきわめて繊細なまなざしでとらえたリアルな児童書といえる。なるほど、このような子どもの心理描写はファンタジックな冒険物語とちがって起伏のある場面展開があるわけでもなく、いうなれば変化に乏しいありふれた日常が描かれているに過ぎない。

だが、考えてみれば子どもたちの現実とはこのような時間の連続ともいえるし外見ではその変化をみることはむずかしい。それゆえに、ステレオタイプの《子ども観》に寄りかかった物語ではなく、この分かりにくく見逃してしまいがちな人格的存在の内面を書くことの意味は大きいのではないか。児童書にかぎらず、人間を本質存在論的に捉える有効な方法論として成立するといっていい。

この物語はおじいさんの家の庭にあるネムノキをきる話からはじまる。ぼくはネムノキをきることに反対だが枝がのびすぎてあぶなくなったから樹木医さんに相談して剪定してもらうことになった、ということだ。

 

「だめ、だめ。」と、ぼくは泣きながらいった。「こまったなあ。」とおじいさんはいった。お母さんはぼくの頭をなでようとした。ぼくはその手をふりはらった。「ばかだ。おとなはみんな大ばかだ。」ぼくにはもっといいたいことがあった。ネムノキについて。でも、どういえばいいかわからなかった。(…略)胸のなかは嵐のようだった。いろいろな気もちがぶつかり合っていて、どうすればもとのような落ち着いた気もちになれるのかわからなかった。(p16~17)

 

家に帰った伸夫はつぎの朝、自分の部屋をでるとき何も知らずに柱をとおりかかったイエグモをつぶしてしまったことに気づく。

 

ぺちゃんこになったクモの姿を見たとき、ぼくのなかでなにかが、ばちん、と割れたような気がした。同時に、ぼくがまえの日に、おじいちゃんや、おじさんや、お父さんにむかって、「大ばかだ。」といったことばがぼくをぐるぐる巻きにした。ぼくは、自分は大ばかだと思った。(p20)

 

伸夫はクモの死骸を庭に埋めるのだが「なにを埋めたの」とお母さんからいわれ、おもわず「ぎんいろの。」といいよどむ。そして、「ぼくはただそこにいただけのクモを殺してしまった。」と困惑する。どうしてそんな「ぎんいろの」ということばをいったのかわからなかった。

そのときから、なにかいおうとするとことばがきゅうに消えてしまって自分がなにをいおうとしているのかわからなくなり、うまくことばを見つけられなくなった。

子どものタイプにもいろいろあっておとなしい子もいればひょうきんな子もいるし、乱暴な子もいれば正義感のかたまりのようなまじめな子もいる。おとなしい子はなかなか目立たないしどうしてもにぎやかで活動的な子どもが目につくものだが、おとなしくても先生や親や周囲の子どもたちのようすをじっとみつめていておそろしく分かっている子もいる。ここに登場する伸夫はどうかといえば感情と想像力がゆたかでじっと考えることができる。

が、その気もちをうまくことばにできないもどかしさをかかえていることがよく分かる。

 

「北山くん、どこか体の具合がわるいの?」ときいた。ぼくは先生の顔を見て、だまって首をふった。「そう。それならいいけど。このごろちょっと元気がないみたいだから、気になっていたの。具合がわるいときには先生にいってよ。」(…略)もしかしたら、ぼくはほんとうに具合がわるいのかもしれなかった。口にだしてなにかいおうとすると、とたんにそのことばの意味がわからなくなってしまうのだ。元気っていうのはそういう感じのことだっけ、と思ってしまうのだ。(p34)

 

この本ではもうひとり芳木くんという《くん》づけで呼びあう友だちが登場する。ふたりはおなじ保育園に通ったが伸夫はおとなしい芳木くんとは一緒にあそぶことはなかった。小学校にあがっても同じクラスになったこともなく四年生になっても別々のクラスで一緒にあそぶことはなかった。

学校の帰りにふたりは偶然に一緒になりいつしか話をするようになる。

 

「芳木くんの家って、こっちだったっけ。」と、何度目かにいっしょになったときにきくと、「あのね、十月にこの近くに引っ越してきたの。」と芳木くんはこたえた。そして、両親が離婚して、いまはお父さんとふたりで暮らしている、と話した。その話し方はまるでクラスであった席がえの話をしているみたいで、悲しんでいるようにはきこえなかった。(p37)

 

また、青山習字教室の水槽の金網のふたについて教室からでてきた男の人とのやりとりがある。

 

「はんにん。」と、ぼくはぞっとしながらそのことばをくり返した。「盗まれたんですか。」と芳木くんはきいた。芳木くんはこのごろでは、ぼくがなにをいおうとしてるのかがわかるみたいで、ときどき代わりにいってくれる。(p54)

「お墓?」「そう、クモの。」「あ、いいよ。」とぼくはいった。芳木くんはまだクモのお墓のことを覚えてくれていたのだ。ぼくはそのことがうれしかった。(p56)

 

ふたりはいつしか気もちが通じあうようになるが微妙な距離感と遠慮があるようにも感じられる。だが、この絶妙な関係性がふたりの内面の描写を際立たせているともいえる。芳木くんが北山くんの家を訪ねたときのことだった。

 

「芳木くんは保育園のとき、いつも家からお気に入りの絵本を持って園にきていたんじゃなかった?」そばのソファにすわって、ぼくたちがアップルパイを食べるのを見ていたお母さんが言った。お母さんは保育園のときの芳木くんをほんとうに思いだしたみたいだった。

(…略)『おうちは仲町のほうだったわよね、たしか。」「まえはそうだったけど、今はちがいます。去年の十月に前田町のあけぼのマンションに引っ越したので。」「まあ、そうだったの。それはまたどうして?」芳木くんは小さく息をのみ、半分だけ残っているミルクティーのグラスに目をやった。それから目をあげて「ぼくんち、両親が。」といいかけたので、「お母さん、うるさいよ。」と、ぼくはいそいでいった。(p61~62)

 

このふたりには秘密の話と場所があった。ふたりはその話のことを確かめるためにその場所を訪れる。

と、ここまでこの本について書いてきてなんと本文からの引用の多いことにおどろく。子どもの心理描写ゆえにその微妙な気もちの変化や動きを絶妙に表現している作品だからかもしれない。いずれの行(くだり)もこの物語を書くににあたり欠くことのできない文章の連続ということになる。

いつの間にか子どもは成長するけれど、身体的な変化とちがってその内面的な変化と成長のプロセスは分かりにくいものだ。主人公の伸夫はやがてことばが出てくるようになるが、それはこの秘密の話を確かめることが契機となったかもしれない。最終章のおじいちゃんの家を訪ねたときのことだ。

 

芳木くんは「くっ。」と笑った。「なに?」「北山くん、このごろ、すらすらしゃべってるね。」ぼくははずかしくなって、指で眉をごしごしこすった。芳木くんがネムノキを見あげた。(…略)ぼくは立派なネムノキを自慢したい気もちでいっぱいになっていた。(p154)

 

読みおえたあとの、この切なさとさわやかさにも似たな不思議な気もちをどういえばいいのだろう。あっ、これはことばを失ったかもしれない。

挿入されている植田真の絵もすばらしく、ビジュアル的にもとてもきれいにできた本といえる。

 

 

 

暗記あそび 2020.11

 

 

高校生のころ、古文の先生からいわれたことがある。吉田兼好の「徒然草」くらいはすらすらと出てくる大人になってほしい、と。丁度そのとき「つれづれなるままに ひぐらし すずりにむかひて こころにうつりゆく よしなしごとを・・・」というその行をそのままそっくり暗記した。現代版の詞書もその先生の物まねで云えるくらいになった。その教科書にはこのように説明してあったことも覚えている。“ 暇なのにまかせて 一日中 机にむかって 次から次へと頭に浮かんでくる 他愛のないことを ”と。

鴨長明の方丈記も暗記した。

「ゆく川の流れはたえずして しかももとの水にあらず 淀みに浮かぶうたかたは かつ消えかつむすびて久しくとどまりたるためし無し 世の中に住む住家とまたかくの如し 玉しきの都のうちに棟を並べいらかを争える高き卑しき人の住まひは世よをへてつきせぬものとなれば これをまことかとたずぬれば むかし在りし家は稀なり あるは大家ほろびて小家となる」とつづくのだった。

なんとなく、覚えるのがおもしろくて『神無月』や『平家物語』のほかに『春望』『江雪』など漢詩もいくつか覚えた。「源平たがいにひきしりぞくところに、沖より尋常に飾ったる小舟いっそう水際へ向かって漕ぎよせ、渚より七八端ばかりなりしかば舟をよこ様になす あれはいかに」とつづく那須与一の一節は中学生のころだった。

 

国語がダメで勉強の仕方もわからず古文は丸暗記だ。それでも、とにかく覚えているといいことがある。この年になってはじめて能楽の「那須与一語り」という奇妙な演目があることがわかった。つまり、この名場面を語りとともに演じる風変わりな古典芸能を知ることができたからだ。語りはほぼ私がおぼえているものと同じだったからなおさら能楽もおもしろくなってくる。

そもそものはじまりは小学2、3年生のころの百人一首だった。

正月前になると《いろはかるた》のように遊んでいる中で、最初におぼえた一首があった。「これやこの ゆくもかえるもわかれては しるも知らずも大阪のせき」という一首だ。上の句がはじまった途端に下の句をとった。ほかの兄弟がうたがいの目でみるが当然のことながら合っていた。それからみんなが競って覚えるようになったからおもしろいものだ。中学2年のころには日本国憲法を覚えようとした。前文は覚えたが条文は大事なところくらいしか覚えられなかった。それでも五十くらいの条文は覚えられた。

最近では「白骨の御文章」を覚えたがこれは門徒衆が諭されるものらしくあまり役には立っていない。だから、「般若心経」くらいは覚えたいがどういうわけかこれがなかなか難しい。

 

そんな折、このたび高樹のぶ子さんが執筆された『小説伊勢物語 業平』をとりあげたNHKの番組「100分で名著」をみていて取り寄せたのがこれだ。

業平といえば、岩国ゆかりの能楽師香川靖さんの計らいで紹介していただいた『杜若』を思いだす。『黒塚』や野村萬斎の狂言『寝音曲』と一緒に能舞台を堪能させていただいたのだが、香川さんがシテを演じられた『杜若』が在原業平の和歌「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」の頭の文字をそろえた名作だ。

NHKのその番組では平安末期の世にあって業平と高子のことや彼らがはじめたサロンのような歌会がこの国の《ひらがな文化》に果たした役割について高樹さんから詳しい話があった。「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれないに みずくくるとは」も百人一首にある在原業平の有名な一首。

 

それにしても、このころの帝・公家文化の奥深さ気高さは独特で、男女の関係の秘められた想いも文学と直結している感じが想像できておもしい。そういえば鎌倉時代の初期、紫式部や西行なども数奇な運命とともに芸術文化に与えた影響も決定的だといえそうにおもえるから不思議だ。

 

 

 

経験とおどろき 2020.11

 

 

ポロックの言葉

 

「わたしの絵はイーゼルから生まれてくるのではない。わたしは描く前にカンヴァスを張ることすら滅多にしない。わたしは張っていないカンヴァスをかたい壁や床の上にとめることの方を好む。わたしにはかたい表面の抵抗が必要だ。床の上だと、わたしはずっとのびのびできる。

わたしは絵をより身近に、絵の一部のように感じる。このやり方だと、わたしは絵のまわりを歩き、四方から制作し、文字どおり絵のなかにいることができるのだから。これは西部のインディアンの砂絵師たちの方法に近い。

わたしはイーゼル、パレット、絵筆といった普通の画材から遠ざかりつづけている。わたしは棒、こて、ナイフを、また流動的なペイントや砂、われたガラスその他異質な物質を加えた重いインパスト(厚塗りの絵具)をドリップすることの方を好む。

じぶんの絵のなかにいるとき、わたしは自分がなにをしているか意識しない。いわば”なじんだ”時期をへてはじめてわたしは自分がなにをしていたを知る。わたしを変えることやイメージをこわすことをおそれない。なぜなら絵はそれ自体の生命をもっているのだから、わたしはそれを全うさせてやろうとする。結果が滅茶苦茶になるのは私が絵との接触を失ったときだけである。絵の場合には純粋なハーモニー、楽々としたギヴ・アンド・テイクが生まれ、絵はうまくゆく」(宮川淳著作集Ⅱより)

 

アクションペインティングを論じるとき必ずといっていいくらい引用される重要な言葉だという。

 

 

経験とおどろき

 

確かにそうだジャクソン・ポロックのいうその言葉「制作している時の感覚は何も考えないで絵のなかにいる」とは分かるような気がする。

だが、ひとたびその絵が完成し自身がその作品に向きあうとき、両者の関係においてポロックはある一定の距離をおいて自ら制作した絵と向きあうことになるだろう。そのとき、ポロックと絵はいうまでもなく主体と客体の関係にありポロックの身体性は客体化された絵とともに存在しているとしか考えられないことになる。

この物理的な距離感覚を消滅できる作品を実現できないかと考えるのは、若いころのぼくにとって大きな問題であり課題でもあった。

 

絵画のフレームを取り払い、空間を構成する壁面と床そして天井、それ自体を絵画的な機能をもつ空間へと異化させ、なおかつ日常的空間と非日常を行き来する流動的な場所として成立できないかと考えたのは1980年に発表した真木画廊の個展「FROM THE NOTHING」での試みだった。

ここでは作品をみる側の主体は客体化された作品の只中にいて作品と一体となって接することになる。作品と対峙する時間とともに視点は動き日常と非日常を行き来する理想的な設定ができた。それはまた、ぼく自身の想像を超えた決定的なおどろきでもあった。

 

このころの一連の営為はつまりそういうことであった。

 

 

 

肉体の軌跡 オースターの人生とともに 冬の日誌(P・オースター著)2020.12

2010年を一つの区切りとしてP・オースターは「内面からの報告書」と対をなす本著「冬の日誌」の執筆にとりかかったという。1947年生まれの著者にとって老いを感じはじめる63~64歳ということになる。冬の日誌とはそのことを意味するのだろうか。

「自己の考古学」といえばいいのか、かつての自分を生き直すように内面性(精神)と肉体の軌跡を考察する回顧(懐古)的なスタイルとなっていることを思えば本著はノンフィクションともいえるのだがそれだけではなさそうだ。つまり、かつての自分を君とよび現在の自分のまなざし(思索)が織り込まれている作品であるが故に、それこそ一人称で語るのではなく君という二人称で語る所以がそこにある。まさしくオースターならではの魅惑的な試みというほかない。

 

4  ハーディング・ドライブ四〇六番地 ニュージャージー州サウスオレンジ。前の家より広い、テュダー朝様式の家で、坂の隅っこに居心地悪そうに建っていて、ごく小さな裏庭があり室内は暗く陰気だった。十三歳から十七歳まで。思春期の苦しみを君が生き抜いた、初めて詩や小説を書いた家であり、君の両親の結婚が崩壊した家である。君の父親はここで死ぬまで(一人で)暮らした。(p57)

21  パークスロープ某所 ブルックリン。1892年築、裏手に小さな庭のある四階建のブラウンストーン。四十六歳から現在まで。君の妻は一九七八年秋にミネソタを出てコロンビア大の英文科博士課程に入学した。コロンビアを選んだのはニューヨークに行きたかったからであり、ニューヨークに住みたかったからコーネルやミシガンから提示されたもっと多額の奨学金も断った。(p100)

 

生まれてから現在までの1から21の定住所が記され、およそ恒久的なものとは無縁の中継地点を経てきたことが自身の生の歴史として記述されている。さらに、次のように続けられる。

 

君は自分が誰なのかを知りたく思う。導きとなるものはほとんど何もないから、自分が長大な、歴史以前から続く移住の産物、無数の征服、強姦、誘惑の産物だという前提に君は立つ。先祖たちがいくつもの領地や王国にまたがって長く錯綜した軌跡を描いてきたという前提に君は立つ。結局のところ、移動をくり返してきたのは君だけではない。(p105)

 

このように過去の自分をふりかえりながら一個の肉体を捉え文明や人種について考察する発掘作業にも似た方法論それ自体が小説となっていることになる。つまり、本著は「内面からの報告書」に対して、初老といえる歳まで生きてきたこの作家自身の肉体の軌跡をとおして世界と対峙し思索するきわめて斬新で魅惑的な作品といえるのだ。

 

ところで、オースターにとって両親との関係性についての考察はきわめて重要でその解析は徹底している。父との関係については「孤独の発明」にその詳細が明かされているようだが、ここではむしろ母との関係性についてその想いが伝えられているように思う。とりわけ、母が少年野球に加わって一緒にプレーし特大ホームランをかっ飛ばすエピソードだけでなく、母の放つ魅力については息子ながら納得しているようでもある。また、どちらかといえばオースターは父方よりも母方の縁者に親近感があったことも理解できておもしろい。

最終章ではややポエティックな表現となっているが自分の老いとともに死について考えているからかも知れない。

また、妻との出会いについても過去のさまざまな失敗、判断の誤り、他人を理解する能力の欠如、衝動的で安定を描いた判断、間抜けな対処の仕方を思えば、こんなに長続きした結婚に行きついたのは奇妙なことに思えるとふりかえる。オースターにとって彼女の存在は主体であって客体ではないともいい、容姿の美しさだけでなくこの上なく賢い女性であり屈指の知性の持ち主であることを理解したとある。

妻と結婚したことでオースターは彼女の家族の一員となり、いつしか両親が暮らすミネソタの冬を訪ねることになるが、著者も人生の冬に入ったとふりかえるのだった。

読後に広がるいいようのない深い感動は、人間存在にかかわる人生観をP・オースターの人生とともに感じとれるからだろうか。

 

 

 

バーツラフ・マルホウル監督  映画「異端の鳥」2020.12.05

今年、最も注目された話題作「異端の鳥」は第76回ベネチア国際映画祭でユニセフ賞を受賞した作品で、ポーランドの作家イェジー・コシンスキが1965年に発表した同名小説を原作としているという。チェコ出身のバーツラフ・マルホウル監督が11年の歳月をかけて映像化したもの。

モノクロームの映像からはミヒャエル・ハネス監督作品「白いリボン」やタル・べーラ監督作品「ニーチェの馬」を連想させるがそれらとも異なる独得のメチエを感じさせるものがある。

物語はナチスのホロコーストから逃れるために両親の計らいで東欧の田舎に一人で暮らす叔母にあずけられた少年の眼で語られている。したがって、物事の因果関係や詳細については定かではない場面もある。少年はそのまま直視することで世界と対峙し現実を捉えるのだ。

 

叔母が病死した後、行き場を失った少年は一人で旅に出ることを余儀なくされる。行く先々で彼は異物とみなされ他の人間たちからひどい仕打ちを受けながらも、何とか生き延びるため必死でもがき苦しむ。戦時下という状況もあるかもしれないが、人種的なものだけでなく東欧に特有の村の掟のようなものも「白いリボン」や「ニーチェの馬」からも感じたのだが徹底して異物に対して閉鎖的な感もある。

それにしても否というほど人間の暴力、差別、醜さ、おぞましさが剥き出しとなった刺激的なシーンがこれでもかと続けられる。非人間的な状況の極限(カオス)の中でロシア兵から教えられた「目には目を…」という教えは人間を襲うこともあるかもしれない。少年はそのことを体現する。ここでは戦争が描かれているわけではない。いうなれば、人間を含むいのちの尊厳と畏怖が根源的な問題として描かれているといえる。《異端の鳥》すなわち《The painted bird》とはこの少年のメタファーとみることもできるだろう。

だが、ペイントされた鳥は放たれたがその群れによって殺されたとき、少年はその鳥を手あつく葬る。このシーンは印象的だ。

 

最終には父と遭遇し再会するが非人間的な扱いをされ殺伐とした極限を生きのびた少年は父を許すことができなかった。全編をとおして少年の台詞はない。少年は言葉を失っていた。名前さえも云えなかったのだ。

だが、戦争が終わり解放された父とともにバスに揺られ、おそらく母のもとへと移動するラストシーンで父の腕に刻まれた番号を見つけた少年はバスの窓にJOSKAと名前を記す。

またしても、世界を一瞬にして理解するあの子ども特有の眼差しが登場した。「ミツバチ…」のアナの眼、「泥の川」のノブちゃんやキっちゃんの眼、「右の心臓」のヨーコの眼とともにJOSKAの眼が。

数日前にもNHKの日曜美術館で写真家宮崎学の生きもの(動物)を捉えた眼が紹介されたばかりだが、少年の眼は人間という生きものをどのように捉え、どのように言葉をとりもどし人間性を回復することができるのだろうか。

 

3時間という超大作「異端の鳥」(バーツラフ・マルホウル監督作品)は実におおく多くの問いを私たちに残している。

 

 

経験とおどろき

 

ポロック ― その言葉 イメージの回生を求めて(宮川淳著作集Ⅱより)

「わたしの絵はイーゼルから生まれてくるのではない。わたしは描く前にカンヴァスを張ることすら滅多にしない。わたしは張っていないカンヴァスをかたい壁や床の上にとめることの方を好む。わたしにはかたい表面の抵抗が必要だ。床の上だと、わたしはずっとのびのびできる。

わたしは絵をより身近に、絵の一部のように感じる。このやり方だと、わたしは絵のまわりを歩き、四方から制作し、文字どおり絵のなかにいることができるのだから。これは西部のインディアンの砂絵師たちの方法に近い。

わたしはイーゼル、パレット、絵筆といった普通の画材から遠ざかりつづけている。わたしは棒、こて、ナイフを、また流動的なペイントや砂、われたガラスその他異質な物質を加えた重いインパスト(厚塗りの絵具)をドリップすることの方を好む。

じぶんの絵のなかにいるとき、わたしは自分がなにをしているか意識しない。いわば”なじんだ”時期をへてはじめてわたしは自分がなにをしていたを知る。わたしを変えることやイメージをこわすことをおそれない。なぜなら絵はそれ自体の生命をもっているのだから、わたしはそれを全うさせてやろうとする。結果が滅茶苦茶になるのは私が絵との接触を失ったときだけである。絵の場合には純粋なハーモニー、楽々としたギヴ・アンド・テイクが生まれ、絵はうまくゆく」

確かにそうだジャクソン・ポロックのいうその言葉「制作している時の感覚は何も考えないで絵のなかにいる」とは分かるような気がする。

だが、ひとたびその絵が完成し自身がその作品に向きあうとき、両者の関係においてポロックはある一定の距離をおいて自ら制作した絵と向きあうことになるだろう。そのとき、ポロックと絵はいうまでもなく主体と客体の関係にありポロックの身体性は客体化された絵とともに存在しているとしか考えられないことになる。

この物理的な距離感覚を消滅できる作品を実現できないかと考えるのは、若いころのぼくにとって大きな問題であり課題でもあった。

絵画のフレームを取り払い空間を構成する壁面と床そして天井、それ自体を絵画的な機能をもつ空間へと異化させ、なおかつ日常的空間と非日常を行き来する流動的な場所として成立できないかと考えたのは1980年に発表した真木画廊の個展「FROM THE NOTHING」での試みだった。

ここでは作品をみる側の主体は客体化された作品の只中にいて作品と一体となって接することになる。作品と対峙する時間とともに視点は動き日常と非日常を行き来する理想的な設定ができた。それはまた、ぼく自身の想像を超えた決定的なおどろきでもあった。

このころの一連の営為はつまりそういうことであった。

 

 

 

ポエティックな絵本 『つかまえた』(田島征三著 偕成社)

 

この作品はなんとも痛快でポエティックな絵本だ。少ないことばと荒々しくも力強い絵がみごとなバランスで構成され、子どもの心とさかなのいのちがふれあったポエティックで感動的な作品だといえる。

前作にもほぼ同じ装丁の『とべバッタ』がある。この絵本は前作のそれともちがっていてどういうわけか《切なさ》がある。おそらく田島さんご自身の原体験となっている大切な《いのち》とのふれあいがこの感動を与えるのだとおもう。

ぼくがつかまえた ぼくの魚だ、ということばが印象的だ。しんじゃだめだ!しんじゃだめだ!いきかえれ、という子どもの必死さが手にとるように伝わってくる。

 

けっして洗練にはむかわないとの本人のことばを真に受けてはいけない。田島さんの絵はやや乱暴にみえるかもしれないけれど、乱暴さの先をみつめる超洗練された絵なのだ。雪舟もびっくりするくらい乱暴力100パーセントの絶妙な絵なのである。

あのグリグリ(いのちのグリグリ)と無垢なる気もちが絵になって表れているところがこの作家の絵がもつ独特のパワーであり、これまでみてきたようなプリミティヴアートとは異質のおもしろさであり魅力なのだ。

ふしぎなことに絵だけでなく田島さんの話しことばやエッセイや立ち姿でさえ、その活動全体がどれをとっても無理のないきわめて自然で普段着のまま成立することにおどろく。

最近では意識してかしないか分からないが絵本の概念をさらに広げてより自在な表現となってきたようにみえる。絵画や絵本であろうがなかろうが、はたまた彫刻であろうがなかろうが強いメッセージをともなう作風になってきたといえる。こんな絵本作家はいない。

 

木の実アートから絵本彫刻とでもいえそうなふしぎな領域で多くの人を巻きこむ独自の展開を楽しんでいるようにみえる。やがて、あのボイスが提唱した社会彫刻へと向かうのだろうか、とこの作家から眼がはなせなくなってきた。

そういう年齢を意識させないエネルギッシュな生き方が80才をすぎて結実したといえる絵本『つかまえた』はすごいぞ!小さな子どもたちからお年よりまで楽しめるスーパー絵本だ。

 

 

意味空間の変容 ​ 「ゴド―を待ちながら」(サミュエル・ベケット著)2020.11

「ゴド―を待ちながら」のゴドーっていったいなんだろう?だれかの名前?ゴッド?それとも神のこと?

サミュエル・ベケットを知るきっかけとなったのは、劇作家・別役実の不条理演劇を介してだった。きわめて限定された登場人物と舞台設定において繰りひろげられるこの劇作「ゴド―を待ちながら」がはじめて上演されたときの反響は衝撃だったという。

若いころ、実存主義哲学を読みちらかしていたこともあり小説家で劇作家の安倍公房の多くの著作にもいたく感動したものである。それというのも当時はメルロ・ポンティの現象学からフッサールまでをたどっていく中で、とりわけ現象学的還元とか判断中止(エポケー)などという概念を中心にしていろいろな問題に向き合っていたような気がする。

また、身体性を意識して主客二元論の超克がいかにあるべきか、などと個人的にも大きな問題としていたことを覚えている。

この作品を読んでいて思うのはデカルト的遠近法による視点、論理の整合性や脈絡、前後の因果関係や言葉の嚙み合い方がほとんど無視されていることだろう。そういう意味でここではある種の《到達》による感動が成立するような劇が求められているのではなさそうだ。

この衝撃的な戯曲にみられる一つ一つの事実を確認してみるといい。まず、特徴としてあげられるのはきわめて限定された二人の登場人物(エストラゴンとヴまえにラジーミル)がゴド―を待ちながら話しているところに通りかかる別の二人(主従関係にあるポッツォと召使いラッキー)、そして男の子だ。

幕はわずか二幕(二場ということか)でとにかくシンプルな構成。いうなれば、《到達》へと向かう演劇的盛りあがりもストーリーもないシンプルな舞台設定において繰り広げられるのは言葉による反復だということだ。そして、その反復がわずかな差異(ずれ)と非対称または対称性を生むことになりそれが一定の時間をともないやがて収斂へと向かう。

また、この反復による差異や逆説的な不条理それ自体が意味空間の変容ともいえる奇妙な現象がことば(台詞)と身体的身振りの関係性において生成されることに気づく。

そして、ぼくたちは台詞劇の呪縛から解放され意味の病を相対的に捉えることにより閃光的に《在る》ことの意味を問いはじめるという想像力をかき立てられるのだ。そのことは、たとえばミニマルミュージックや劇作、アートやダンスにしても文学にしても共有される可能性の一つであることを疑う人はいない。第一幕の中ごろにこんな場面がる。

 

沈黙。エストラゴンとヴラジーミルは、だんだん大胆になり、ラッキーのまわりを回り始める。そして、いたる所から、観察する。ポッツォは貪欲に肉をかじり、骨までしゃぶってから、捨てる。ラッキーは、トランクが地面に触れるところまで、ゆっくりとからだを曲げるが、急にまたからだを伸ばす。立ったまま眠っている人間のリズムである。

エ どうしたんだろう? ヴ 疲れきった様子だ。 エ なんだって荷物を置かないのかな? ヴ わたしに聞いたってわからないよ。(二人は、ラッキーをさらに近くからはさむ)気をつけなよ! エ 話しかけてみようか。 ヴ 見てみろ! エ なんだ! ヴ (指さしながら)首だ。 エ (首を見て)なんにも見えないぜ。 ヴ ここへ来てごらん。

エストラゴン、ヴラジーミルの場所へ来る。(p41-42)

 

つまり、ここ以外でもいわゆる台詞劇に対して身体をともなう身ぶりが強調され不毛なことば(台詞)のやりとりが繰りかえされるのだ。

反・演劇(演劇を超える)というべきかこの作品が名作《ハムレット》とならび称され、現代演劇最大の傑作といわれ問題作といえる所以がそこにある。ぼくはそう思うのだがそれは当然のことながら受け手に委ねられていることでもある。そう、完結した到達点に感動するのではなく、不条理な場面に対峙することで受け手が個々に経験してきた社会的文化的感覚的なリテラシーを総動員して劇作を受けとり脱構築することなのだ。

安倍公房の『砂の女』が目的と手段が転倒したように砂を運ぶ。やがて確実なのはわずか数ミリの砂の流動だけと感覚される。

だが、この事態を前にして求められるのは端緒の常に更新されていく経験と世界と対峙する意志ということではなかろうか。

 

 

あたたかくも切ない語り おとうさんのかお(岩瀬成子著 佼成出版)2020.11

 

三年生の春休み、利里は父に会うためひとりで新幹線や電車を乗り継いで単身赴任でいる父のマンションを訪ねる。

この本はすれちがう父娘の心情がにじみ出すようにあたたかくも切ない語り口で描かれている。いうなれば、岩瀬成子ならではのリアルな感覚と少女特有の内面の動きを丁寧に描いたものでこの作家が得意とするところだ。

それというのも小学三年生の娘というきわめてデリケートな気持ちや感情の動きだけでなく、単身赴任の父の心情からみてもそのリアルな関係性の差異(ズレ)が手にとるように伝わってくるからかもしれない。

 

「へんになっちゃったよ」わたしがいうと、「だいじょうぶ。自信をもって」と、おとうさんはまた口だけ動かしていいました。(p21)

絵をうけとると、すぐに小さくおりたたみました。「せっかくかいたのに、だめだよ、そんなふうにしちゃ」(p26)

「いわれなくても、気づいたら、するもんだよ。利里にはよく気がつく人になってもらいたいもんだな」わたしはだまっていました。(p40)

「漢字か計算のドリルをもってきてないの?」「もってきてないよ。春休みは宿題がないもん」「そんなんじゃだめだよ。宿題がなくても、ちゃんと自分で勉強しなくっちゃ。四年生になるんだろ」(p42)

 

お父さんは利里に多くのことを教えようとする期待もする。おとうさんはとにかく心配で娘に一生懸命なのだ。会社の休みをとって利里と一緒に大川の桜の名所や夏休みのキャンプ計画の予定地に連れて行ったりする。

一方、三年生の娘の気持ちは気まぐれで複雑、この時期のアンバランスな気持ちの変化と感情があふれだすようにストレートに描かれている。

 

「あのね、しょうらいなにになりたいかってことを、おとなの人は子どもにすぐに聞きたがるでしょ。だから、いつ聞かれてもいいように、ちゃんと答えを用意してなきゃだめなの。『えーと』なんていって、もじもじしてたら、この子は頭があんまりよくないのかなって、すぐにおとなの人はきめつけるからね。で、あなたは、しょうらいなにになりたいの?」「郵便局強盗」その子はすばやく答えました。(p10-11)

「なんかかわいいね」わたしは本当にそう思いました。その子は「くふっ」と、首をちぢめてわらうと、二―ちゃんをわたしの手のひらにのせました。(p38)

 

利里は公園で偶然に知り合ったとなりの部屋の雪ちゃんと顔を描いた石たちとの会話のなかに素直にはいっていけるし仲良く楽しむこともできる。このあたりの少女のリアルな心理描写はこの作家が得意とするところで本当におどろかされるときがある。

父娘のすれちがう感情の差異はふたりをさみしくさせる。利里の心をなぐさめてくれたのは雪ちゃんと小さな石の友だちだった。

利里は桜の花見でひろった石に顔を描き“もも”と名づける。雪ちゃんたちに紹介しみんなで公園であそんだりする。おとこの子たちが邪魔しにきてもブランコを大きくこいで平気だった。

 

「遠くを見ろっていったんだよね。おとうさん」と、わたしはいいました。「え」と、おとうさんはわたしをみました。「わたし、思いだした。このまえ、大川で思いだしかけていたこと。じてん車のれんしゅうをしていたときのこと。おとうさんは、『目の前ばっかり見てちゃだめ。もっと先のほうを見なきゃ』っていったよ」「そうだったかな」「『先のほうだけでもだめ、ときどき、ずっと遠くを見るんだ。ずっとずっと遠くだよ。山のむこう遠く』っていったよ」(p87)

 

なにかが変わるように父娘の気持ちを象徴するこの場面は印象的だ。「遠くを見る、遠くまで行く」とはどういうことなのだろう。

ふたりの視界がひろがるように物語はおわりをむかえるのだが、成長の予兆を感じさせる読後の印象はふしぎな意味のひろがりを考えさせる。

 

 

 

オースターの謎「内面からの報告書」(Pオースター著、柴田元幸訳、新潮社)20.9.30

 

「内面からの報告書」「脳天に二発」「タイムカプセル」「アルバム」と4編からなる本著は現代アメリカ文学を代表するP・オースター自身の記憶にある内面の歴史をひも解くように物語として記述する設定となっている。

だが、いわゆる既存の自伝的告白スタイルの物語ではなくかつての自分を「君」と呼び、書き手のオースターが自らその歴史を生き直すように物語は描かれる。とりわけ、作家自身が自らの内面性を検証しながら再構築するスタイルはこの物語と作者の関係性を露呈し自らと対峙するきわめて独創的な小説といえるのではないか。対をなす「冬の日誌」から読むのが妥当かも知れないがなぜか逆になってしまった。どういうわけかニューヨーク三部作も逆になったがさほど違和感はなかったのでこの本も興味深く読めてよかった。

 

表題となった「内面からの報告書」では次のようなエピソードにふれている。「鍵のかかった部屋」でもファンショーの幼少期のエピソードとして描かれたデニスという男の子をめぐる話が挿入されている。

 

思い出すのは、自分が感じた憐れみと同情の念であり、友の辛さを目のあたりにして自分の中にも湧き上がってきた悲嘆の疼きである。君はこの子を愛し、尊敬していたから、彼が苦しむのを見るのが耐えられなかった。だから、デニスのためと同じくらい自分のために、君は衝動的にプレゼントを彼に渡し、…(P47)

 

つまり、ここでは幼少期から12歳までの君をいくつかのエピソードを辿りながらその内面を創造するのだ。

 

苦悩せる疚しき夜尿症常習犯たちの、秘密の友愛会!いずれにせよ、そのとき君はキャビンに駆け戻り、ベッドから下側のシーツをはぎ取って、フランスの地図に似た形の黄色い犯罪証拠が浮かぶその白いシーツを抱えて便所に飛んでいき、すべてを蝕みすべてに侵食する尿の悪臭ふんぷんたる場の流しで、黄色いしみをごしごし洗い落とした。こうして、いっさいバレずに済んだ。ジョージの優しさが、発覚の恥から、究極の屈辱から、君を救ってくれたのだ。(P70)

 

また、英語教師のミスターSの奨励する読書競争における屈辱的な疑いをかけられたことについてこのようにふれている。S先生は少しずつ折れてきて、自分の間違いに気づいてハンカチを出して君に渡した。

 

それは挫折の匂い、あまりに何度も使われすぎたものの匂いだった。半世紀以上前のあの朝のことを考えるたび、君はふたたびあのハンカチを手に持ち、顔に押しつけている。君は十二歳だった。大人の前で取り乱し、泣いたのはそれが最後だった。(P86)

 

「脳天に二発」では映画を観たときの決定的なショックについて次のような記述もある。

 

五月のある土曜の午後、君の母親か父親が、君の新しい仲間でリトルリーグのチームメートでもある同級生マーク・Fと君を車で映画館まで連れて行ってくれて、君たちは二人で映画を観る。タイトルは「縮みゆく人間」。四年前に観た《宇宙戦争》と同じように、この映画は君という人間をひっくり返し、世界についての君の考え方を変えてしまう。かつて六歳のときに感じたショックは神学的ショックと言っていい。神の力に限界があることを突如理解し、恐ろしい謎がそこから生じた―全能の存在の力にどうして限界がありうるのか?

だが、「縮みゆく人間」のショックは哲学的、形而上学的ショックである。そのささやかで陰鬱な白黒映画から受けた衝撃はまさに圧倒的であり、君は一種呆然たる高揚の中に取り残され、あたかも新しい脳を与えられたような気持になる。(P89-90)

 

この映画のことは最終編「アルバム」で2、3のシーンとともに紹介されている(P68-75)。

一九五七年、君は十歳で子どもでも大人でもない少年時代中期後半の子どもということになる。アイゼンハワーが連邦軍を送って暴動を阻止し学校での人種差別廃止を推進したことは漠然と理解しているしハリケーン・オードリーでテキサスとルイジアナの住民が500人以上死んだことや世界の終末を描いた『渚にて』と題した本がでたこともだいたい分かっている。だが、ベケットの「エンドゲーム」やジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」の出版について知らないし、ジョゼフ・マッカーシーが死んだことも知らない。

いうまでもなくこの記述は作家の現在における描写でありこれまでの経験を通して描かれていて、いうなれば再構築された表現ということにもなる。だが、十歳で直感的に経験した決定的なできごととしてその後のP・オースターに影響を与えたことはかなりの信ぴょう性があるといえるのではないか。

 

「タイムカプセル」は日記についての語りとなっている。自分は何の痕跡も残さなかったと君は思っていた、という。

 

少年時代から思春期にかけて書いた小説も詩もすべて消滅し、幼年期から三十代なかばは写真も数枚しかなく、若いころやったこと言ったことは考えたことすべて忘れられ、覚えていることもたくさんあるにせよ覚えていないことの方がずっと、おそらく千倍くらい多い(P-151)

 

両親が離婚したあとは定まった住所はなくなり、十八から三十代前半までは引越しのくり返しで過去の遺物は母のところに預けたが、母も二番目の夫と暮らしていたが腰が定まらず、預けたものも無視され忘れられてしまう。だから、日記をつけていればと今になって君は思う。だが、君には自分について書く習慣がなくその意義も分からなかった。以後四十七年間、ほとんどすべてが失われていったという。

この本に取りかかってから最初の妻、作家で翻訳家のリディア・ディヴィスから連絡があり、彼女に宛てた百通の手紙の存在が明らかになる。

 

この文書の山こそ十八歳のときにかけなかった日誌であること、思春期後半から大人になって間もない時期までのタイムカプセルにほかならないことを君は悟った。記憶の中であらかたぼやけてしまった時代の、くっきりあざやかに焦点の定まった一枚の写真。それは貴重な、これまで唯一見つかった、君の過去に直接通じる扉なのだ。(p154)

 

コロンビアでの二年目はベトナム戦争だけでなく、君は悪い夢と苦悶の一年と記憶している。ニューヨーク三部作を読んでいて感じたのは形而上学的な意味で、物語と対峙する作者の存在すなわち主体と客体の超克という視点だった。おそらくはコロンビアの学生時分にかなり徹底した西洋哲学、とりわけ実存主義哲学に影響されたのではないか、とそう思っていたのだがここで確認されて良かった。気分は、ちょうど映画「プラトーン」の時代と重なってくる。

 

一九六六-六七年、膨大な読書の年。あれほど本を読んだ時期はおそらく生涯ほかにない。詩だけでなく、哲学も読んだ。たとえば十八世紀のバークリーとヒューム、二十世紀のヴィトゲンシュタインとメルロ・ポンティ。先の二センテンスにもこの四人の思想家全員の痕跡が見てとれるが、最終的に一番しっくり来たのはメルロ・ポンティの現象学だった。具象化された自己をめぐる彼の洞察が、いまでも君には一番納得がいく。(P163)

 

おそらく、このあたりの経験をふまえて十歳で観た映画「縮みゆく人間」のショックの記述があるように思えるのだが。

かつての自分といっても「タイムカプセル」は青年期のことでもあり人生における悩みとともに大学や社会に対する欲求、哲学的な課題、人間関係における葛藤など、ある程度鮮明な記憶として現在と直結している。かつての君は現在ともクロスしていることになる。つまり、存在は時間の変化でもあるのだ。そのことは最終編「アルバム」が証明しているのかもしれない。

自伝風だが自伝ではない。かつての自分と対峙し現在を生き直す画期的な現代小説。今ここにオースターの謎が解きあかされる。あなたはもう、読まずにはいられない!

 

 

 

尽きることのない空間 ガラスの街(P・オースター著 柴田元幸訳 新潮文庫)2020.9.5

 

現代アメリカ文学の旗手といわれるP・オースターのニューヨーク三部作「鍵のかかった部屋」「幽霊たち」とつづいて本著「ガラスの街」と読みすすめていくと、どうやらこの本の方が先に執筆されたことが分った。つまり、ぼくは逆の順を辿るように読んでいたことなるらしい。だが、オースター自身が「鍵のかかった部屋」で書いているようにこれらは究極的にはみな同じようなものだという。あきらかに物語はちがっているのに同じとはどういう意味なのか。

おそらく、オースターの関心はゼロから小説を書くことのプロセスにあったというほかない。つまり、物語を書くという行為とともに書かれた物語とはそもそもどういうものであるか、また書物という形式(制度)において自分との関係性をむしろ意識していたのではないか。ニューヨーク《ガラスの街》はそのことを意味するメタファーとして捉えていい、ぼくはそう思う。ポストモダンといわれる所以でもある。換言すれば、客体化された物語とそれを書いた主体としての身体性を著作という形式においていかに意識化できるかということなのかもしれない。

「そもそものはじまりは間違い電話だった。」とはじまるこの小説「ガラスの街」でもそのことを象徴するようにある布石が施されている。

 

ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並みや通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。街のなかで迷子になったというだけでなく、自分のなかでも迷子になったような思いがしたのである。散歩に行くたび、あたかも自分自身を置いていくような気分になった。(p6)

 

P・オースターという私立探偵と間違われ電話を受け取ったウィリアム・ウィルソンの名をもつ詩人でミステリー作家クインはオースターに成りすましてスティルマン夫人(ヴァージニア)の依頼を受けることになる。その依頼とは精神疾患をもつ息子(ピーター)に危害が及ぶのを恐れ、息子の父スティルマン(コロンビア大学宗教学教授)を監視し定期的に報告してほしいということだった。そう、ほかの二作もそうだったが唐突にも依頼を受けるのだ。

その後、物語は名門スティルマン家のことや幼いピーターが9年間も父によって監禁されたこと、スティルマン自身の著作やそのほかの研究論文などにふれる。

やがてクインはついに老教授スティルマンを探しだし探偵(?)として追跡し監視をつづけながらそのことを“赤いノート”に記すことと報告をすることになる。物語はクインの想像の中で謎解きされるように繰り広げられるがついに彼はスティルマンと遭遇しさらに言葉を交わすようになる。だが、老人はクインと会うたびに「どなたでしたか」と聞き返すのだった。探偵クインはその都度、スティルマンの著作にあるヘンリー・ダークや息子のピーター・スティルマンなどと名乗りスティルマン老人の心意と謎を探るように物語は展開するのだが突如として姿を見失う。クインはそのことをヴァージニア・スティルマンに報告しニューヨークをさまようことになる。

 

スティルマンはいなくなってしまった。老人は街の一部と化した。ひとつのしみ、句読点、はてしなく続く煉瓦壁のなかの一個の煉瓦となった。クインが死ぬまで毎日この街を歩きつづけたところで見つかるまい。いやすべては偶然に帰され、数と確立の悪夢に堕してしまった。何の鍵も、手がかりもなく、打つべき手もひとつとしてなかった。(p166)

 

このことは物語の常として起点をゼロに置き不確かな試行のくり返しの中で物語を書きながら作家自身の存在論的な意味を相対化する生き方を想起させる。

クインは間違われた本人であるはずの優秀な探偵P・オースターに何もかも白状して助けを求めようと電話帳でオースター探偵事務所を調べるがそんな事務所は載っていなかった。だが、個人名の方にはその名があった。そして、クインはP・オースターに連絡しマンハッタンの自宅を訪ねるが、P・オースターは探偵ではなく作家だった。かつて、ウィリアム・ウィルソンの名で出版したクインの詩集のことを覚えていたオースターは、クインの説明を聞き入れ依頼金の受け取りに協力してくれる約束をする。「何か私にできることがあったら、いつでもお電話ください」とオースターは言った。

 

クインはもうどこにもいなかった。何もなく、何も知らず、何も知らないことだけは知っていた。はじまりに送りかえされたばかりか、いまやはじまりよりももっと前にいた。(p189)

 

奈落の底に突き落とされるように資金も底をつき、途方に暮れたクインは何度もヴァージニア・スティルマンに電話するがついに繋がることはなかった。なす術(すべ)のないクインは事件のことを忘れてふだんの暮らしに戻りたいと思ったが、それが認められないということなのだろうかと自問する。無一文となった生活の中でクインは一人ニューヨークをさまよい、街のようすや自身の運命や事のはじまりについて様々な思いにふける。

残った金を引っ張り出してクインはオースターに電話する。そして、小切手が不渡りだったこと、スティルマンがブルックリン橋から飛びおりて自殺したことなど、オースターから何もかもを知らされる。

 

自分がどういう気持ちなのか、クインにはよくわからなかった。はじめしばらくは、何も感じていないような、何もかもが無に帰したような気がした。(p222)

 

107丁目の自分のアパートに帰るとそこはすでに他の人が住んでいてすべてを失ったクインは、放心したように東69丁目のスティルマン家のアパートへ行くと死んだように深い眠りにつく。夢とも現実ともいえない最後の描写ではいつの間にか本著「ガラスの街」を思わせる“赤いノート”を書いているが、クインなのか著者P・オースターなのか不思議な仕掛けとなっている。

まさしく意表をつく鮮やかな展開、この作品で一躍脚光を浴びたとされるP・オースターの記念すべき小説第一作。翻訳は柴田元幸さん(アメリカ文学、東大名誉教授)。どうぞ、お楽しみください。

 

 

 

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