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​そのほか そのⅣ

物語はつくられる 『象徴天皇という物語』2019.10

 

象徴天皇という制度はどのように考えられるのか。国民統合の象徴とはどういうことなのか。これから行われようとしている令和天皇の即位にかかわる数々の儀式が注目されることもありたいへん興味深いところである。また、即位儀礼の「大嘗祭・新嘗祭」について柳田国男や折口信夫はどう解釈したのだろう。

本著『象徴天皇という物語』は、おもに「世界」「思想の科学」、「神奈川大学評論」「仏教」などを初出誌としているが、大幅に改稿と補筆をほどこしこの本のために書き下ろした数章を加えて1990年ちくまライブラリーの一冊として刊行された。その後、ちくま学芸文庫に収録されたのち「象徴天皇をめぐる祭祀のゆくえ」という論考を書き下ろし、それを「補章」として加えてこのたび岩波現代文庫から刊行されたものとある。

また、これまで象徴天皇について真正面から論じられることもなく、象徴の概念についてさえ曖昧にしたまま問われることのなかったこの制度に民俗学と歴史学の両視点で検証する渾身の著といえるだろう。したがって、著者としてはこれが実質的な「定本・象徴天皇という物語」になるとしている。

 

著者は名著『東西/南北考いくつもの日本へ』(岩波新書)において、縄文以来の民族史的景観に対して、「ひとつの日本」というフィルターを自明としてかぶせてゆく歴史認識の作法に異をとなえ、柳田民俗学を相対的に捉えかえす新しい民俗学の発展に一石を投じた。

それにしても著者の柳田民俗学を相対的に捉えかえす眼差しには、その穏やかに見える風貌からは想像もできない程きわめて厳しい側面がある。

だが、この天皇制をめぐる民俗学的な論証からは否応なく柳田民俗学を相対化せざるを得ない要素が多々あってその徹底した解析と論考はさすがに説得力がある。そのことは著者の作法といえばいいのかあるいは流儀として、天皇を中心とした歴史的価値の呪縛から解放されるべく歴史的、文化的な重層性をたどるところから相対的な論考を企てるほかないのだ。

 

ここでは参考文献として、三島由紀夫、和辻哲郎、折口信夫、柳田国男、津田左右吉、坂口安吾、石井良助のそれぞれの著作に言及しながら、おもに「文化概念(文化共同体、全体意思)としての天皇制」、「天皇の親政・不親政の歴史」「祭祀と稲」「天皇霊」などに関する徹底した解析から天皇の即位にまつわる儀式「大嘗祭・新嘗祭」の歴史的文化的な意義が解き明かされる。

歴史的に中世それ以前にまでを視野に入れてみると統治のあり方そのものが現在のように確立されていない事実を考えれば、いくつもの統治や制度、宗教、祭祀、文化があったと思われる。また、権力の二重構造(精神的権威と政治的権力)にしても制度的に曖昧さのぬぐえないこのあり方について判断中止したまま歴史的事実として「象徴天皇という物語」はつくられてきたというほかないのだろうか。

河合隼雄の「中空構造日本の深層」(中公文庫)によれば、日本神話の構造を男性原理と女性原理の対立という観点で見ると、どちらか一方が完全に優位を獲得しきることはなく必ずカウンターバランスされる可能性をもっているという。つまり、日本神話の論理は統合の論理ではなく均衡の論理であるというわけだ。何かの原理が中心を占めるのではなく中空の周りを巡回していると考えられるのであり、永久に中心に到達することのないものとしているのも興味深いところだ。

 

補章として書き下ろされた「象徴天皇をめぐる祭祀のゆくえ」において「天皇という制度はたしかに、西欧の世俗的な王権とは大きく隔たったものだと、あらためて思う。それがいわば、ひとりの生身の人間にたいして、現人神を演じたり、その生涯を国民のための祈りに捧げ尽すことを強いるような制度であることの、大いなる残酷を思わずにいられない(p251)」との私感とこの制度の核心に届きえないことに、もどかしさと無念を覚える、としているのもきわめて印象的な記述といえるだろう。

目前にせまる令和天皇即位儀礼の前に象徴天皇について考える絶好の書であることはまちがいない。

 

本橋成一さんのエッセイ集 『世界はたくさん、人類はみな他人』2019.09.25

 

東京は東中野に本橋成一さんの拠点となるポレポレ座がある。ぼくは以前、斎藤徹さんと能楽師・久田瞬一郎さんのDUOライブでここを訪ねた。

だから、本橋成一という存在はむしろその周辺の方々から知ることになったのだが、ぼくは単純に映画監督とばかりおもっていた。それというのもきっかけは纐纈あや監督作品『祝の島』の周防大島町であった上映会でこの映画をプロデュースされた本橋さんとの繋がりを知ったからでもある。じつは、その上映会の情報も徹さんからだった。

その日は纐纈さんも来られていたのに残念ながら映写機の不具合があって少し混乱したのだが、作品『祝の島』はすばらしい作品だった。いうまでもなく上関原発建設に揺れる祝島のことだが、この映画ではむしろ島に暮らす人たちの笑顔、生き生きとしたその暮らしぶりを丹念に描くことに徹している。その後、各方面でのいろいろな人がこの国のロールモデルとして島の暮らしに注目するようになった。

また、本橋さんのもとで映画製作を手掛けるようになったその取材のあり方と手法の流儀が伝わってくる作品でもある。

ポレポレ座を訪ねたときもスタッフでいた真妃ちゃんから「纐纈さんは下におられると思うけど紹介しましょうか」と云われたのだが、いずれ何処かで会える気がしてそのとき断ったのでぼくはいまだに纐纈監督との面識はない。

その後、ドキュメント映画『隣なる人』の岩国での上映会で児童養護施設「光の家」をフィールドワークとする評論家・芹沢俊介さんと刀川和也監督のお話を聞く機会があり、刀川さんから纐纈さんの新作『ある精肉店のはなし』のことを聞いて広島のサロンシネマで鑑賞することができた。

その映画のもとになる屠場の取材における北出精肉店のことがこの本の「牛は涙を流すのだろうか」というエッセイになっていることが分かる。

松元ヒロさんの公演でも「ある精肉店のはなし」をネタにしていたし、ヒロさんからも本橋さんのことを聞くことになった。

映画監督のみならず、写真家として多くの作品やエッセイがあることを本著にふれることではじめて知ることができた。また、同時に本橋さんの取材の流儀ともいうべきスタイルとまなざしがこのエッセイ集に滲みでている気がする。

つまり、本橋さんの取材の流儀とまなざしが《方法論》としてそこに住む市井の人々の生活に徹底して向けられていることである。そのことは『祝の島』や『ある精肉店のはなし』にも間違いなく共有されている。

おそらくは、炭鉱、サーカス、上野駅、築地魚河岸、大衆芸能、その他にもそのまなざしは一貫しているのではないかとぼくは想像する。

ベラルーシや与那国の糸数さんの取材にしてもそうだ。

映画『ナージャの村』の主人公ナージャの父親ボーブカが51才で亡くなった(チェルノブイリ原発事故による放射能によるものではないか)と聞いて墓参りで訪ねた際、この村ナージャの冬の葬列のシーンを思いだしたという。ボーブカが唄ったその撮影のとき書きとめた本橋さんの詩を紹介しよう。

 

じいちゃん還ってきたなあ   村はいま春

じいちゃんがかけた巣箱で 小鳥たちが待っているよ

じいちゃん還ってきたなあ 村はいま夏

じいちゃんが植えた林檎の木は たくさんの実をつけて待っているよ

じいちゃん還ってきたなあ 村はいま秋

じいちゃんの家の白樺が 黄金色の落ち葉の雨を降らせて待っているよ

じいちゃん還ってきたなあ 村はいま冬

じいちゃんの家もないし 誰もいない

でもなあ あの雪の下には たくさんのいのちが春をまっているよ

 

『ナージャの村』の葬列のシーンは、ボーブカのおかげで、いのちの話しにつなぐことができた。(p121)

 

2017年、本橋さんが久しぶりに村を訪ねるとボーブカの墓も探すのに苦労するほど、墓地はにぎやかになっていて、なかには昨日埋葬されたかと思われるような色鮮やかな造花で飾られたお墓もあった。あれから多くの村人が還ってきたのだ、とチェルノブイリと福島の原発事故にふれている。

 

 

散文の呼吸 『もののはずみ』( 堀江敏幸著 小学館文庫)2019.9.9

本当におもしろい人だなぁと思う。堀江さんは『その姿の消し方』で「消えた町、消えた人物、消えた言葉は、…(略)永遠に欠けたままではなく、継続的に感じとれる他の人々の気配によって補完できるのではないかといまは思いはじめている。視覚がとらえた一枚の画像の色の濃淡、光の強弱が、不在をむしろ「そこにあった存在」として際立たせる。」という。

また、『回送電車』では自らの文学にふれ、「特急でも準急でも各駅でもない幻の電車。そんな回送電車の位置取りは、じつは私が漠然と夢見ている文学の理想としての、《居候》的な身分」としている。つまりは「評論や小説やエッセイ等の諸領域を横断する散文の呼吸。複数のジャンルのなかを単独で生き抜くなどという傲慢な態度からははるかに遠く、それぞれに定められた役割のあいだを縫って、なんとなく余裕のありそうなそぶりを見せるこの間の抜けたダンディズムこそ《居候》の本質であり、回送電車の特質なのだ」として回送電車宣言をして自身の文学観を表明している。

この作家ならではの独特のスタンスであり独特のスタイルといえるだろう。読んでいて本当に不思議な時間体験をしているようで心地いいのだ。


本著では手もとに集めおいた諸々の品物にまつわる記憶や思い、エピソードが不思議な時間とともに伝えられる。たしかに、この散文の呼吸はなんとなく心地いい時間の流れを感じさせるし、書き手と読み手の記憶をつなぐ不思議な空間を共有しているようでもある。

 

たとえば、「鉛筆削り」(p62)では、小津安二郎の「お早よう」のなかで殿山泰司が演じる押し売りシーンを枕にして、自ら愛用するフランスの学童文具の粗雑さとその殿山泰司のシーンをつなぐ記憶が語られる。

 

原則として、鉛筆はナイフで削ることにしている。ところが、欧米の鉛筆は先が削られた状態で売られていて、円柱を円錐にする「筆おろし」のたのしみもないし、たまたま美しい黄色のベークライト製鉛筆削りを正方形と円形のペアで手に入れたこともあって、最近はそちらを使うようになった。もちろん刃先は摩耗していて、じつに削りにくい。(p64)

 

このほかに、「おまけ」「美しい木」「皿の音」「ドアノブ」「海を見ていた」「木靴」「二分十五秒」「残されたボタン」「彼女たちの脚」「ものごころ」などなどおよそ50個の品々のことにふれて書かれている。こんな「がらくた」ばかり集めていったいなんの役に立つのか?と帯にはあるけれど、ここには偶然にも読み手の記憶とクロスする品物もあるだろう。

 

ひとつの「もの」にあれやこれやと情けをかけ、過度にならない程度に慈しむことで、なにか身体ぜんたいをはずませ、ひいては心をもはずませること。私はそれを、もののはずみ、とよんでいる。(p222)

 

他愛のないエッセイのようでも、何とも云えない記憶が揺さぶられるようで不思議な気がしてくる。

この発想と文体、記憶と思いが錯綜する知的な引用のスタイルは、この作家ならではの感覚のあらわれとして描出される。おもえば、初期の名作『郊外へ』や『雪沼とその周辺』にも同質のエッセンスが感じとれる。

エッセイなのか物語なのかポエティックな広がりをもつ本著『もののはずみ』は、堀江さんにとってきわめて自然な成り行きとして刊行された必然的な産物といえるだろう。この何とも云えない散文の呼吸をどうぞお楽しみください。

 

 

久しぶりの伊藤さん 2019.9.3

 

神楽坂にあるセッションハウスの伊藤さんが岩国にこられ、ぼくは今年の5月惜しまれて他界された斎藤徹さんのお別れ会で東京の田園調布にある《スタジオいずるば》以来の再会となった。 

伊藤さんは岩国にこられるのは三年ぶりと云われたが、この街の衰退した姿にはかなりのショックを受けたようだった。

三人で楽しい会食をすませたが他に話ができる場所はなく、結局のところわが家へ案内し11時過ぎまで話し込んだのはいいがそのあと市内のホテルに引き上げるタクシーがない。来るときの運転手は夜通しやっているというので安心していたのにどうしたことか。少々、あわてたがやっと事なきをえた。

翌日ホテルをチェックアウトして、伊藤さんはブラブラと街を歩いた感想を送ってくれたのだが本当に岩国は何もなくなった。映画館も本屋もレコードショップもなく話ができる喫茶店もクラシックやジャズを聴かせる店もない。だから、ないのが当たり前になったようにありふれた居酒屋とコンビニだけが目につく街になったと思うのはぼくだけだろうか。

 

後日、セッションハウスで行われた新井英一のコンサートのDVD2枚と彼がTBS時代に制作したラジオ番組「BC級戦犯をめぐって」と「卑怯という名の勇気-韓国陸軍兵士によるドキュメント-」の二つをまとめたアーカイブ録音1枚とヘンリーミラーが三島由紀夫の死について書いたものをそれぞれ送っていただいた。

ぼくは、新井英一を聴きながら20年近く前に岩国で行われた野外ライブと錦帯橋の上で歌った「チョンハーへの道」を想いだしていた。

新井英一が谷川俊太郎と武満徹の「死んだ男の残したものは」を歌っているとは知らなかったが脇にいるギター演奏も印象的ですばらしかった。新井英一のあの迫力とあたたかみのある独特の声質は変わらず何となくうれしい気分にさせてくれた。

TBSラジオのアーカイブは貴重な資料としてあらためていろいろなことを考えさせられた。

 

1本目の番組「BC級戦犯をめぐって」のそれぞれの証言では戦勝国によって裁かれた裁判とはいえ戦時下において経験した不条理な行動への気持ちとその思いは、2本目の番組「卑怯という名の勇気-韓国陸軍兵士によるドキュメント-」の“人間の尊厳”という点で共通する問題でいろいろなことを考えさせる貴重な資料だと思った。

それは、ベトナム戦争で韓国軍兵士として軍の命令に背いて日本への亡命を求めた兵士への対応をめぐるドキュメントだったが、結局は北朝鮮へと亡命したという。

自分ならどうするかと考えたときそう簡単にはいえそうにない。命がけで逃げる方がマシと考えるかもしれないし国に従って死を覚悟するかもしれない。また、息子に赤紙がきたらどうするかとも考える。それは直面してみないと、、、

おそらくはべ平連と思われる若者たちの対応をめぐる生々しい声、若々しい小田実の声はそのあたりのシビアな現実を突きつけていたが、これもなつかしいもので何年たっても声質というものは変わらないものだなあとつくづく思った。

うっすらと記憶に残っていたようなニュースでもあったがこの兵士が北朝鮮へ亡命したとは知らなかった。

 

ヘンリーミラーの三島由紀夫の死についての論考は三島への畏敬の念と違和感の入り混じった複雑な心情が滲みでた丁寧なものでたいへん説得力のあるものだった。

そこに紹介された『太陽と鉄』は三島由紀夫が褌姿で日本刀を構えた表紙で、ぼくはその初版本を『蘭陵王』とともに神田の八木書店で買って今も大切にしている。

この本の最後におさめられた「イカロス」という詩などは本当に死を準備しているように感じられるものでこの詩の一節をぼくは暗記している。また、今は手元にはないがこの「イカロス」を作品にしたこともある。

確かに不可解な最後の市ヶ谷の決起は滑稽としかいいようのないことかも知れないけれど、ぼくは観念論者とか狂信者としてしか理解できないほどの究極的な心境にそのときの三島は達していたのかもしれないという気がしている。若いころ、三島の文学に影響をうけ読みあさった一人としてぼくはそう思う。

三島由紀夫は当時でさえ、極東アジアの一角にきわめてニュートラルで国家として主体性のない経済大国が存在するのを忌み嫌い、英雄の概念や行動の美学を掲げて天皇論を主張していた。

だが、死を覚悟していたことも事実で死をもって自らを完結することを願っていたようにも思う。だから、ぼくたちは三島の文学までもその文脈にあてはめて考えようとするのかもしれない。

事実、『金閣寺』では火を放つ若い僧の心境は死をもって解脱する臨済宗のイメージで語れるし、「イカロス」にしても限りない死への接近がイメージされている。

いうなれば、三島由紀夫は身をもって自ら描いてきた物語のイメージを体現して完結したかったのかもしれない。だが、四部作『豊饒の海』のように死をもって完結した暁には、いずれ輪廻転生することをイメージしたとも考えられないだろうか。仮に今現在がそうだとしたらそれはちょうど『暁の寺』あたりかも知れない。

だから、《覚悟の行動学》ともいえるかも知れないが70年代の時代状況もあって、任侠映画の高倉健の殴り込みや「止めてくれるな!おっかさん」「唯一の無関心で通り過ぎて行く者を俺はゆるしておくものか、藁のようにではなく震えながら死ぬのだ」という学生たちの運動とかさなったような気もしている。

確かにヘンリーミラーの論考は信ぴょう性も高く説得力もあると思うけれど、それ故に天才の名をほしいままにした三島由紀夫の死は考えれば考えるほど不可解さが増幅してくるように思えてくるのだった。

 

 

原体験としての《恐れ》『サラサーテの盤』(内田百閒著 福武文庫)2019.7.25

本編におさめられたこれらの作品から感じられるある種の不気味さは、なんとも名状しがたい独特の感覚に起因している気がする。このほかにも数々の随筆や短編小説にみられるこの作家のユーモラスな感覚や滑稽ささえも意図的なものとしてではなく、並はずれた美意識や徹底したこだわりと独特の価値観に根差した行動原理がある意味で異化作用をひき起こす結果とみることが妥当とはいえないだろうか。

本著における夢ともうつつともとれる幻想や幻聴のように非現実的な時空を超えた描写にしてもこの不気味さの根底には何となく原体験としての《恐れ》と同期しているようにおもえるのは何故だろう。

おもえば、川上弘美の《うそばなし》や観念的な思考ともちがうし、シュールな理論に沿ったものでもない原初的な感覚そのものがこのような稀有な文体を生みだしているように思えてならないのだ。

 

ベルグソンの定義によると《笑い》とは瞬間的な優越感というけれど、本著の笑いと恐怖の同居するありようがこの定義に当てはまらないのもおそらくそのことに由来しているのではないか、ぼくはそう思う。つまり、そこにはゆるぎない絶対的な存在価値として現実を逸脱しているともいえる<個>があるといえよう。また、このことは百閒文学特有のスタイルでもあり文体ともなっているし名著『冥途』にも共通するところでもある。

 

たとえば、『東京日記』では普段あるはずの丸ビルがなくなるという物語においてこのような描写となっている。

(p99)「丸ビルはどうしたのでしょう」「丸ビルといいますと」その男は一寸言葉を切って、人の顔を見てから、「さっきもそんな事を云った人がありましたが、一寸私には解りませんね」と云って向こうを向いてしまった。

(p100)帰りに有楽町の新聞社へ寄って、友人の記者に、丸ビルに用事があって出掛けて来たけれど、丸ビルはなくなっていたと話したところが、そんな事があるものかと云って、相手にしなかったが、いいお天気だから出て見ようと云って誘い出した。

(p105)不意にひどい稲光がして、家の中まで青い光が射し込み、店の土間にいる人人を照らした。その途端に屋根の裂ける様な雷が鳴ったので、驚いて立ち上がったら、土間に一ぱい詰まっているお客の顔が、一どきにこちらを向いた様であったが、その顔は犬だか狐だか解らないけれど、みんな獣が洋服を着て、中には長い舌で口のまわりを舐めまわしているのもあった。

(p107)仙台坂を下りていると、後ろから見た事のない若い女がついて来て、道連れになった。夕方で辺りが薄暗くなりかかっているが、人の顔はまだ解る。女は色が白くて、顎が奇麗で、急に可愛くなったから、肩に手を掛けてやった。

 

情景描写にみられる固有名詞や媚態をともなう女性との心理や仕草の描写にはきわめてリアルな描出空間と同じ時系列のなかにも超現実的で個人的な感覚によって意識化されたものが等価なものとして挿入されている。

夢かうつつか、まさしくその飄々としたふるまいとまなざし自体が現実と非現実、恐怖とユーモア、さらに滑稽さをともなう由縁でもありきわめて独特の文学世界を成立させているというほかない。

 

ほかにも、『梟林記』『棗の木』『南山寿』『枇杷の葉』『神楽坂の虎』や表題作となる『サラサーテの盤』など不思議な世界がズラリと並ぶ短編の数々。どうぞお楽しみください。

 

 

 

 

含蓄のある新たな西行伝 『西行』(新潮文庫 白洲正子著)2019.5.29

 

 ねがわくば花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃

 

平安末期の世を生き、出家人として方々を旅しながら多くの歌を残し伝説化された歌聖・西行。多くの謎に満ちた西行の足跡を辿りながら著者独自の西行像に迫る論考はさすがに説得力がある。

とりわけ、西行の残した多くの歌からこの謎めいた人物像を探ることは容易であるはずはない。それゆえに明恵上人を書き上げた後に西行に取り掛かるまでに十数年の歳月を要したことも肯けるというもの。それも推敲とか執筆に費やしたというよりもむしろ躊躇いのような悶々とした時間を過ごしただけとの言葉もイメージできるからおもしろい。

おもえば、詞書と歌による表現形式で世界と向きあい自身に対峙する修行(試み)は自然との同化による自己消滅こそが解脱への到達ということだったのだろうか。

 

風になびく冨士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬわが思ひかな

いつとなき思ひは富士の煙にて 折臥す床や浮島が原

 

いうなれば、このように自然に対峙し宇宙と同化する境地こそが西行の即身成仏の思想とみることができる。人間味あふれるこの思ひこそ西行の魅力であり不確かさであり謎ともいえる所以といえるのではないか。

それにしても芭蕉や山頭火、李白や杜甫にしても、どうして方々を旅するのだろうと不思議に思えてくるのだが、その足跡を追体験しながら随筆をまとめる作業とは執筆者独自の創造の世界として経験されるほかない。

福田和也は解説でそのことにふれ、白洲氏の文章は、何にも似ていない。西行を語ることは、歌について語ることであり、仏教について語ることであり、旅を語ることであり、山河を語ることであり、日本人の魂と祈りを語ることであった。としている。

また、『明恵伝』の記述をめぐる虚実にふれて、瞬時に世の虚妄にかかわる認識に通底させて、西行の姿を追い、見つめる読者の目を、西行が「虚空の如き心」で世界を見ていた認識と一致させてしまう文章の動きは、批評と呼ぶのすらさかしらに思われる程で、流暢な運びのうちに視界を転換し、「虚」と「実」の間に広がる、生々しい歌の在処を照らしだす。そのとき白洲正子の文章の中に西行が現れる、という。

個人的には残念ながらそこまで読み切ることはできないけれど、ディスクールとしては納得できるし、含蓄のある新たな西行伝ということもできるだろう。

 

春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり

おのづから花なき年の春もあらば 何につけてか日を暮らすべき

 

待賢門院への思い、この濃密な息苦しさ、官能へと、花へと、身をさらす西行。

本著は西行とともに旅を楽しむことも、多くの謎とともに数奇のあり様を探ることも、想像力をかき立てられる傑出した一冊であることはまちがいない。

 

 

戦争をめぐる保守派の変遷『保守と大東亜戦争』 2019.5.17

 

いつの頃から大東亜戦争をアジア開放のための聖戦とみなし、戦前の日本の姿に積極的な意義をとなえ賛美する立場を《保守》とするようになったか。そもそも、《保守》とはいったい何なのか?

本著は戦前の日本において保守の論客たちがどのような発言をしてきたかを詳細に辿ることから歴史を解明し、今日への問いを見出そうとする著者の立場を示すものである。

 

ここでは冒頭、1930年代の昭和維新を掲げたテロによるクーデターの《ファッショ的革新性》そのものに保守思想とは相入れない矛盾があることを指摘し、《大東亜共栄圏》や《八紘一宇》という超国家主義的構想も容認できないとしている。

著者は保守の定義として、基本的考え方をエドマンド・バーグがとなえたフランス革命批判にあるという。

フランス革命を支えた左翼的な思想は、理性の力によって進歩した社会を構築できる、平等が実現したユートピア社会をつくり上げることができる、というものだ。つまり、人間の《理性の無謬性》を前提として合理的な正しさに基づく社会改造を行えば、理想とする社会を実現できるという発想を共有している。

これに対して、バーグをはじめ保守思想家は懐疑主義的な人間観を共有する。人間は不完全な存在であり、道徳的にも能力的にも過ちを犯しやすくエゴや嫉妬、怨嗟の念からも自由になることはできないし欲望を捨てることもない。 すなわち、人間にとって普遍的なのは《理性の無謬》ではなく《理性の誤謬》だとしたうえで、保守は理性を否定するのではないとも強調する。

一見、矛盾の論理にみえるかもしれないけれど真に理性的な人間は理性の限界を理性的に把握するのだとし、個別的な理性を超えた存在の中に英知を見出そうとするのだという。それは伝統、慣習、良識であり、歴史の風雪に耐えてきた《社会的経験知》だとし、この集合的な存在に依拠しながら、時代の変化に対応する形で漸進的に改革を進めるのが保守の態度であるという。

 

戦前、保守の論客たちは軍国主義に抵抗し批判の論陣を張っていた。第一章から第二章にかけては戦争へいたる過程とその抵抗について、竹山道雄、田中美知太郎、猪木正道、河合栄治郎、福田恒存ら保守の論客たちの発言と行動に詳細な言及を企てる。

とりわけ、この国の戦前から戦後を通じて共通する行動原理として革新的変貌のあり方それ自体に、左翼・右翼または進歩的平和主義を問わず本質的に同質のものを読み解く論考は興味深いところでありきわめて刺激的といえる。

第三章では保守の論客・池島信平、山本七平、会田雄次の実体験とその言動を通して、当時の帝国陸軍をはじめ日本の軍国化と侵略の実態を詳細に記述している。

 

会田は戦後を『虚妄の時代』と呼び、断罪しました。戦後民主主義は、高邁な理想によって支えられたのではなく、極めて功利的な処世術として展開してきたとみなしました。彼はそこに「いやらしい現実的臭気」を嗅ぎつけました。(本文p212)

 

このことはつまり、戦前と戦後は同根の存在であり~(略)~戦前の「皇道や神国日本」というイデオロギーに飛びついた人間こそ、戦後の西洋ヒューマニズムの偽善に飛びついた人間に他ならない。会田はその一連の人間たちを鋭く批判することで、保守の論理へと接近したという。

 

戦中派保守の論客たちが次々に鬼籍し世代交代していく中で、第三章では戦争に至るプロセスを主体的に体験していない世代が保守論壇の中核を担うようになるが、戦中派として孤軍奮闘する歴史学者林健太郎の主張とそれへの反論、とりわけ田中正明、伊藤陽夫、小堀桂一郎らとの大東亜戦争の正当性をめぐる論争は詳細に示されていて読み応えがある。

中村榮との論争では世代間のギャップによる歴史認識との差異、最終章では猪木正道の言動をとりあげここでも軍国主義と戦後の空想的変輪主義の同質性に言及する。

 

つまり、戦争賛美が保守なのではない。

本著はいま一度、戦争をめぐる保守派の変遷をみつめ、本来の保守的人間観に立ち返って戦争に至ったプロセス、思想的背景を吟味する必要性を説く渾身の一冊といえる。

 

 

 

永遠の徹さん 2019.5.22

 

 コントラバス奏者の斎藤徹さんが5月18日11時36分に永眠されました。岩国のぼくたちともながいお付き合いになりますが謹んでご冥福をお祈りいたします。

FBなどで病状がかなり厳しくなってきていることは察していましたが、何ともいいようのない深い悲しみと喪失感がひろがっています。

徹さんとの出会いはかれこれ20年近くも前になりますが、広島の友人黒田敬子さんの紹介だったと思います。小さな会場でおこなったソロコンサートがはじまりでした。

そのときに聴いたコントラバヘアンドの衝撃はぼくにとってはかなり強烈なものでした。

即興ならではの独特の奏法、独特の旋律と音、それは不思議な広がりと大きなスケールを感じさせるきわめて印象深いものでした。

その後、ミッシェル・ドネダ、チョン・チュルギ、徹のトリオライブをシンフォニア岩国でおこないました。そのときの演奏はアルバム『ペイガンヒム』の一曲目におさめられています。ベースとパーカッションのリズムに合わせミッシェルの独特のソプラノサックスが重なり、《祝祭性》を感じさせるその音とリズムはぼくたちの意識の底に眠っている記憶を呼び覚ますような不思議な音楽でした。

このような経緯を経て、アートムーヴ2003岩国「表現の成り立ち」という企画に参加していただき、現代美術の5人の作家とともに会場でのコンサートをおこないシンポジウムにも参加していただきました。とりわけ、錦帯橋の架け替えによる解体材料(橋板40枚)と錦川の石を並べたぼくの作品「流れ」の上での演奏は今でもその光景が目に焼き付いて記憶されています。

行政と一体となった地域づくりを考える各種プロジェクトの一環としておこなわれたフォーラム2006岩国ジャン・サスポータス&斎藤徹DUOパフォーマンス岩国公演は衝撃的で圧倒する夢の競演でした。とりわけ、「地から」という後半のプログラムは今でも語り草となっています。

さらに、アートムーヴ2007岩国「具象の未来へ」ではアーティスト小林裕児さんとのライヴペインティングに参加。

この間、広島でもたびたび黒田さん企画のコンサートにも駆けつけ、ミッシェルや娘の真妃ちゃんらとの打ち上げに割り込ませていただきました。徹さんはいつもにこにこしていてその人柄も音楽と同じ大きなスケールを感じさせる不思議な存在でした。

東京の神楽坂でおこなった2010年の個展では、最終日ぼくの作品でお遊びドローイングのような投げ銭ライヴの演奏をしたことも今は楽しい思い出となってしまいました。また、その会期中に東中野のポレポレ座でおこなった久田舜一郎さんとのライヴにもお招きいただき堪能したことを覚えています。

その神楽坂で奥さんの玲子さん、徹さん、朋(マルメロ)さんとお会いし、後のオペリータにつながる話をしたような気がします。

四谷区民ホールでおこなわれた1ステージのパルパル「ユーラシアン・エコ―ズ第二章」公演は本当に夢のような共演で画期的な舞台となりました。それはまさしく《宴》のようでもあり、徹さんのいう《捧げもの》のようでもあり、時空を超えた演奏が繰り広げられました。「うたがないのにこれはうたじゃないのか」と、おもわず徹さんとやりとりしたことがありました。

偶然にも映画監督テオ・アンゲルプロスの作品に興味をもっていたぼくたちとも話は盛り上がりましたが、徹さんは強烈なテオのファンで「永遠と一日」をイメージした楽曲もありました。旅先ではいつも2、3枚テオのDVDをもっていくともおっしゃっていました。

フォーラム2013岩国「オペリータうたをさがして」岩国公演は2014年の新年早々1月17日におこなわれ、その「永遠と一日」も組み込まれています。作家乾千恵さんとの「千恵の輪トリオ」であたためられた《甦りのうた》を軸にしたオペリータは少々アクシデントもありましたが松本泰子さん、さとうじゅんこさんお2人のソプラノにおなじみのジャンさん、喜多さん、オリビエ・マヌーリさん、斎藤朋さん、乾千恵さんが集結、斎藤さんの願いとも希望ともいえる画期的な舞台となりました。

「いま、ここ、わたし」と考え続けてこられた斎藤さんは3.11の被災地を訪ねた際、この場に必要なのは演奏じゃなく《うた》だと気づいた、とその動機についてお聞きしたように思います。

その後、身体的ハンディをもつ人たちとの共演で可能性を開き、病と闘いながらも益々クリアーになっていく凄まじい活動には、限られた命の時間との競争のようでもあり無念さの入り混じった覚悟が伝わってくるようで、ぼくは「なんて強い人なんだろう」と驚嘆させられたり呆れたり心配していました。

2018年の三月、広島のギャラリー交差611でおこなわれた黒田さんの回顧展でのコンサートが徹さんとの最期でした。かなり病状も進んでいて辛そうでしたが素晴らしい演奏でした。

おもえば、ソロコンサートからはじまり各種企画を経て斎藤徹のスケールを感じてきましたが、それは大自然にどっかりと根をおろした巨木のイメージです。

「何処へ行ってしまうのか」とお聞きしたこともありましたが、変化しているように錯覚するのはただ年輪を重ねて信じられないくらい大きくなっているからと思えるようになってきました。つまり、「いま、ここ、わたし」とくりかえし根を張りながら途方もない年輪を重ねてきたと云うべきかもしれません。ぼくはそう思います。

徹さんは自ら「すばらしい友だちに出会う天才」だとおっしゃっていました。そのことは「友だちと友だちを出合わせる天才」だったことにもなります。

徹さんが示してくれた音楽の世界は永遠に多くの方々に受けつがれるとぼくは思います。壮大なスケールで音楽と向きあいそれを体現してみせてくれた人、徹さんありがとう。 

 

 

 

市井の営み 2019.02.20

 

《岩国の楠》は、水彩画の持つ透明感を存分に引き出した快作であった。湖水のむこうに茂る楠の樹列と空と水面という単純な構造の風景画であるが、この絵を独特のものにしているのが空と水面を覆う筆跡である。この筆跡を眺めているとポール・セザンヌがセントビクトワール山に向かいながら、苦闘の挙げ句に油絵具の重さから逃れて、紙の白い輝きに最小限の水彩を置くという行為に収斂して行ったのかを思い起こす事になった。このようにセザンヌがあれほど求めて止まなかった光のダンスを、スミさんも感じてこの絵を描いていたような気がしてならない。水彩絵の具という素材的には脆弱なものを、ここまで強い表現に高めるのは並大抵の技量ではないと思うのだが、それを意図というより天然の恩寵によって懐柔し、驚くほどの率直さと単純さによって実現させている奇跡をこの画面には感じる。エネルギーにあふれる楠のボリュームも幾何学の図像のように抽象化し切った点も高く評価したい。

 

これは山口県美展(2019年2月14日~3月3日、山口県立美術館)で優秀賞を受賞した藤本スミさんの作品「岩国の楠」について解説された審査員・椿昇さんの講評です。印象派の巨匠で現代絵画の父ともいわれるポール・セザンヌの晩年の連作「サント・ビクトアール」を引き合いにして、とりわけこの作品の次元の高まりについて批評されています。

 

因みに、スミさんが自作についてコメントしたものは次の通りでした。

『岩国の楠』

「この絵は樹齢300年とも400年ともいわれている岩国の楠の風景を描いた水彩画です。いつも先生からは絵のことはわからなくても一生懸命になって描くことと絵も描くが恥もかくようにいわれています。

恥をかくのは慣れていますが時代が時代だったこともあり、これまで絵に親しむなんて考えたこともありませんでした。ですから、この度のことも本当は何のことやらあまりわかっていないのです。

教室では本当にみなさんお上手でわたしが一番下手でどうしようもないのですが「下手でいい、頑張るだけでいい」といわれています。その結果がこういう作品になったので仕方がないのです。

ただ、絵を描くのは本当に楽しいしわたしにとっては大切な時間になってきていますね。」

『楠の岩国』

「楠の風景を描きはじめてこの作品が3作目になります。このサイズで描いたのは2作目です。どうして空を点々で描くのかというとはっきりした答えはありません。普通に描いてもおもしろくないし点々で描くことくらいはできると思ったからです。川にも点々が写っているのでそのように描いたのです。

なかなか上手に描けないのですが、いつも下手でいいといわれます。その下手さ加減がおもしろいのだと先生からもいわれますし教室のみなさんから励まされて楽しく描いています。」

 

また、椿さんは総評で今日的な絵画の動向について素朴派やアールブリュット(アウトサイダーアート)の存在を紹介され、絵画のフォーマリズムや限界芸術論をも示唆した興味深い指摘をされていますが、その文脈に立って藤本スミさんの作品を絶賛されているとも言えましょう。

ぼくもほとんど同感でこれまでにも高林キヨについてアンリ・ルソーを引き合いにしながらいろいろな指摘をしてきました。また、オペリータでおなじみのコントラバス奏者・斎藤徹さんや絵本作家で現代アートの作家・田島征三さんもハンディキャップをもつ人たちの表現の可能性について注目しています。斎藤さんは病と闘いながらも彼らとの共同作業においてますますクリアになっておられるし、田島さんはオファーもないのにアールブリュット論を書くとFACE BOOKでおっしゃっていました。

 

昨年は六本木の3つの美術館でアジアの現代アートが大々的に紹介されましたが、これまでの欧米の価値観が相対化されグローバルな意味においてアジアのまなざしが重視されているともいえましょう。このことはアートにおける特権的な身分、あるいはひな壇に祭られいうなれば《専門》と称するものの概念や価値観が問われ見直される状況が目立ってきているとも考えられます。

また、シュールの可能性とその動向にもふれていましたが表層的な映像技術の進化による視点が突出しているけれども、別の意味でシュール本来の視点からラカンやブルドンを読み切った新たなまなざしの台頭が期待されるとしています。なるほど現代を捉える手段の一つとしてシュールの理論は深層心理学や子ども文化論など構造主義的な視点からもその有効性をキープしているということなのかもしれません。

ひと頃「専門とは何か」ということについて大いに議論され問題視されてきましたが、現代アートの状況もおそらく社会との関係性が重要視され地域づくりの手段としても考えられるようになってきたのも事実です。

今日においてアートは益々もって《プロ》も《アマ》もない、すなわち《シロート》と《クロート》の枠さえとり払われたともいえるいうなれば「市井の営み」となってきているということかもしれません。

つまり、今回の藤本スミはそういう文脈での評価ではなかったでしょうか、ぼくはそう思います。

 

 

 

並はずれた美意識 2019.03.05

 

百鬼園(内田百けん)文学にふれるたびに思うのだが、この面白さはどういうからくりで成立しているか、この愉快さ痛快さはどこからきているかといつも不思議な気もちで考える。この作者ならではの独特の感覚とまなざし、あるいは特有の美意識ともいえる“こだわり”をどのように理解できるのだろう、と考えてしまうのだ。

本著は『立腹帖』という表題ではあるけれど一世を風靡した関西の漫才師・人生幸朗の“ボヤキ”のようなものではなく、百鬼園先生ならではの並はずれた美意識ともいえる“こだわり”が絶妙な文体と重なってあの独特の世界を際立たせているともいえる。

たとえば「れるへ」。

一つの編成の列車の中で、涼しい所と涼しくない所とがあるのは、よくないだろう。よくないから、涼しい所をなくしてしまえと云うのは、云う人の気持ちが萎縮している。よくないから、涼しくない所がない様に、早くみんな冷房にしろとどなった方が適切である。そうでなければ、おれは負けてもいいけれど、お前には勝たせたくないと云う将棋の様な事になる。(p141-142)

まさしく絶妙な言い分という他ない。

 

八十周年の祝賀行事で東京駅の一日駅長をたのまれた百鬼園先生の気持ちは昂るばかりで、自分なりにあれこれと楽しい行事のイメージを広げたあげく結局は熱海まで乗車を楽しむ策をあれこれと考える。

珍妙な訓示からはじまるこの発想と立ちふるまいは単なる列車愛好家とは異なる並はずれた世界観(こだわり)がある。このことはたとえば破たんした我儘のようでありながらこの美意識はまわりの人々から慕われ愛されている、がゆえに独特の痛快さと滑稽さをともなうということなのかもしれない。

「時は変改す」

しかし又考えて見るに、寝付けない所に寝て、翌朝あっさり起きられるか、どうか疑わしい。矢張り何でも馴らさなければ、事はうまく行かない。祝賀の行事が始まる五六日前からステーションホテルへ這い入み、毎朝起きる順序を繰り返していれば大丈夫かも知れない。それがいいに違いないけれど、そう云う事をすれば、先方も迷惑であり、私だって迷惑である。だれが金を払うか知らないが、私は払いたくない。鉄道の方で引き受けて、払ったお金が余り高かった為に、運賃値上げの原因なぞになっては、人人に合わせる顔がない。まあよしておきましょう。(p148)

 

一事が万事、この調子で思いをはせることになればどんなドラマが待っているか想像するだけでも楽しくなる。

やがて百鬼園先生の“熱海”作戦は成功したものの結末はと云えば・・・

デッキに起って、横なぐりの雨に叩かれながら、遠のいて行く駅長の姿を見ている内に、「あ、しまった」と思った。私はこの列車を発車させるのを忘れて、乗って来た。

 

後半の「九州のゆかり」「八代紀行」「千丁の柳」「臨時列車」「阿房列車の車輪の音」「逆撫での阿房列車」「阿房列車の留守番と見送り」と列車の旅はつづくのだが、いずれもこの作家ならではの独特の感覚にあふれているものばかりだ。

 

 

85才の快挙 2019.02.01

 

わが教室の最高齢・藤本スミさん(85才)が2018年度山口県美展で優秀賞を受賞したことは大きなおどろきとともに岩国にとってひさびさの快挙といえるのではないだろうか。

それも文句なしの評価で推挙されたのだからなおさらである。おなじみの審査会では2作とも入選とするか1点だけとするかで審査員による興味深い論議が交わされたことはとてもおもしろい論点でもあり楽しかった。

御年85才となるこの人は今でも会社の事務の仕事をしながら野菜をつくって過ごしてきた普通のおばあちゃんである。おもしろいのは多くの兄弟姉妹がいて三姉妹がそろって絵を描いていること。おくればせながら75才という高齢になって絵を描きはじめたのがスミさんだった。

ほかの二人も県美展や市美展に入選している謂わば“ベテラン中のベテラン”でスミさんは二人と比べるとつまり“シンマイ”ということになる。

だが、今も絵を描きつづけているのはスミさんだけで、まわりの兄弟からは「こうしたらどうか」「ここがヘン」「ここが下手」などと一方的に批判されるばかりだった。当の本人も絵のことはあまりよくわからないものだから、おくれてはじめた引け目もあってか「そうかいねぇ」といった具合でそのまま下手を受け入れてきた。

 

それでも教室の展覧会「絵画のいろは展」があると息子さん夫妻が必ず来て楽しんでくれる。永い間、働きつづけてきた母の楽しそうに描いている作品をあたたかく見守っているようで微笑ましく思っていた。指導する者としてぼくは少しずつ誘い込むように「小さな絵ばかり描いていてはつまらん」といってやって欲しい、とこの夫妻に冗談半分に頼んだこともある。「そうですかハイ、わかりました。」ということになった。後日、そのことを確認すると確かに息子からそのようにいわれたということだった。

そこで全紙サイズ(50号)の大きな楠木の風景にとりかかったというわけである。

すると、これが予想以上におもしろい作品になった。しかもそれほど苦にならないようすなのでもう一枚とつづけたのがこの度の2作品であった。

スミさんは絵がよくわからないので「好きなように描くといい」といってもなかなかむずかしくなるだけで、「ここをこうしてみよう」とやることが決められると根気よくそれを頑張ることができる。

その結果が山口県美展の優秀賞に輝いた「岩国の楠」という作品である。絵画のいろは展でもこの作品は一室を飾るに相応しい見ごたえのある作品としてその存在を示した。

それゆえに典型的な素朴派といえそうだが、かつての高林キヨが山口のアンリ・ルソーならスミさんはグランマ・モーゼスかフランスのアンドレ・ポーシェットあたりということになるだろう。

それはともかく、この快挙は岩国の美術関係者のみならず多くの高齢者の方々に勇気と大きなはげましを与えることになるだろう。

また、次世代を担う文化活動の後継者の育成に頭を抱えている岩国市の実情を考えると若い人のさらなる奮起を促したいものである。

 

スミさんは自ら描いておきながら「先生どうです?おかしいでしょう」という。いつも、わたしが教室で一番下手くそだという。謙虚というべきか何なのかこの人に限ったことではないが、本当はふたりでおもしろいところやいいところを確認してそれを展開しようとするのだが、どういうわけかまちがいを探してそれを直そうとする人がある。

そういえば、高林キヨもおもしろい絵ができているときに限って必ず《ぼやき》がはじまったような気がする。「ひとつも描けない」「よくもこんな下手な絵を描いてきたもんだ」「調子にのって、こんなバカは本当にみたことがないとみんな笑うでしょう」とはじまるのだった。

 

最近になってぼくは切実な問題として考えることがある。若い人を育てることは大切でいろいろなアプローチもあるけれど、残念ながら岩国では若い人の文化活動は停滞している。むしろアートセラピーなどという領域さえ突き抜けた高齢者の人たちのアートの必要性をどう考えられるかということが気になっている。

むずかしい命題かもしれないが、事実そういう事態にさしかかっている現状を幾度となく経験するからかもしれない。

それゆえに、まさしくこの度の藤本スミの快挙はまちがいなくこの現実に光明を与える大きな出来事といえるのではないだろうか。

 

 

 

展評にかえて 2018.10.10

2018年度のグループ小品展が滞りなく終了しました。今回の展覧会は台風25号の影響でやや天候が心配されましたが幸いにも大事に至らず充実したものとなりました。

かつて、この展覧会は集客500人超を誇っていましたが今では年々岩国の人口減少や高齢化とともにグループ会員も減少傾向とあっておよそ半数の250人程度までに低下する状況となっています。それでも岩国の現状からみるとそれなりに盛会だったといえるのかもしれません。

このように少子高齢化と文化活動を担う次世代の後継者不足はきわめて深刻な事態で切実な問題となっていることがよく分かります。

幸か不幸か、今回は大ホールや多目的ホールなどでの催し物がなかったこともあり、待ち時間のついでに拝見ということもなくいつになく落ち着いた雰囲気のなかで行われました。

いま一度、この展覧会をふりかえって個々の作品にふれてみたいと思います。

 

今回、初参加となった岩本さんは絵を描きはじめてまだ4~5ヶ月といったところですが何とか参加できて本当に良かったと思います。この人については会場にコメントを添えていましたので“期待される新人”ということでお分かり頂けたかと思います。作品は鉛筆画ですがある程度“かたち“をとることもできるし前途有望です。今後どのように成長するかたいへん楽しみです。

また、お姉さんや身内の方々にもお会いできて良かったし職場の人たちにも可愛がられているようすも感じられました。これから色彩を使ってドンドン制作する予定ですが絵画表現の多様性と幅広い楽しみ方を知ってほしいと思います。

また、中村みどりさんの達磨はたいへん迫力がありました。昨年の「絵画のいろは展」では30号に一つの達磨を大きく描いていましたが今回は画面をたくさんの達磨で埋め尽くすことで絵画の質的な変化を引き出していました。意識的にそうしたのか分かりませんが確かにこのように均質化された空間が絵画表現の思いがけないおもしろさに発展することがあります。さらにもう一点、これから“金魚提灯”の60号を描いて先ずは県美展を目標に取り組んでいます。

昨年、大病を経験されたご主人ともお会いできて良かったし、これを機会に二人で他の展覧会も楽しめるようになるといいですね。いま開催中の山口県立美術館「日本の超絶技巧展」、これから開催される「雲谷等顔展」などおもしろいと思います。

石川さんは昨年の県美展で初入選されいよいよこれからというタイミングでしたが思いがけない病気でリタイヤを余儀なくされ、今春みごと復帰して徐々にペースを取り戻している最中ですがどうにか二点出品することができました。山口県美展の審査でおなじみの元永定正さんはこのようにおっしゃっています。

「がんばらんとがんばれ から元気も元気のうち 我流は一流(我流は誰に習う 自分に習う) 顔が心を表現している(あなたの顔も抽象画)」

すべて“か”ではじまる言葉です。あまり頑張りすぎないように頑張ってほしいものですが順調に回復しているようすが伝わってきました。

 

川部さんの今回の4点はいずれも完成度が高く良くできた作品といえます。ぼくはこの人に絵画のおもしろさと多様な表現を通して日常の価値観を少しずつ広げてみたいと考えているのです。おそらく本人も同じことを考えていると思いますがある程度それが器用にこなせるから逆にそのことを困難にしているかもしれません。今回は犬を描いたもの、白菜を描いたもの、ピーマンを描いたものと玉ねぎの作品の類と三種類の絵があったといえます。

つまり、丹念に見たままを再現しようとするもの、結果的に見えるものだけでなく見えないものが描かれたもの、そして造形的に遊びの要素を加えることで絵画の質的変容とその意味を探るもの、等々の作品があったように思うのです。見えないものとはどういうことかというと、例えば「不気味さとか異様さ」とでもいえそうな感じられるもののことですが、言葉にもならない混沌の中でこういう感覚を磨いていくとさらにおもしろくなると思います。

いつも元気な徳田さんは曰くつきの「ぶどう」の絵と「白川郷」のようすを描いた作品が好評で印象的でしたが、相変わらずのミーハー調でいろいろなモチーフに取りくみながら楽しんでいる感じがします。

それだけ好奇心があるということですが、ぼくはこの人に本当に絵画表現の楽しさ面白さに出会って欲しいと願っています。前回のこの展覧会では“絵画を測るモノサシ”ということで絵画の多様性と表現についてコメントしましたが絵画制作はそのつど更新されていく経験と発見の連続ともいえます。ますます、多様な絵画表現と可能性に興味をもって楽しんでほしいと思います。

 

ところで、今年のノーベル賞(医学、生理学)を受賞された本庶佑(ほんじょたすく)博士は「混沌」という言葉を好んで多くの研究者を励ましたとおっしゃっています。つまり、研究者は絶えず混沌の中に身をおきそのかけがえのない時間が大切で心地いいのだ、ともおっしゃっていました。

野原都の絵画もまさしく“混沌”の中にあるといえます。ひと頃は構成美やある種の緊張感を求めて絵画を制作してきたのですが“牡蠣殻”をモチーフにして描いた作品を契機に混沌の中に突入して右往左往いています。右往左往というともがき苦しんでいるように聞こえるかもしれませんがそうではなく寧ろ楽しんでいることでもあります。さらに更にきびしく自作と向き合ってほしいものです。

徳ちゃんこと徳川さんはどういうわけかこのところ富士山にはまっているようで、おもしろい写真や富士の絵を見つけてきてはそれを描いています。今回は冨士の作品2点に加えて曼珠沙華の風景、紅葉した風景、民話調の女性像など5作品が出品されていました。どこで見つけてくるのか分かりませんがどこからともなく見つけてきては本人曰く“燃えたぎる思い”がそれを描かせるらしいのです。前回は絹谷幸二画伯の派手な富士だったのですが今回は大観や大沢画伯の冨士がきっかけとなって燃えたぎったのだそうです。

永年、詩吟で鍛えてきたその咽で“うなり”が聞こえてきそうな絵を描いてほしいものですが、やはり好奇心旺盛で何となく“おもしろいもの”を求めて新しい表現(価値)を探そうとするところがあり視界は良好です。

 

藤本スミさんも鑑賞お助けメモ「進化する84歳」を会場に添えていたので制作のようすは理解していただけたかと思います。先にもふれたように高齢化が進む岩国においてぼくは技術ではなく絵画のおもしろさと楽しさをどのように気づいてもらえるかということ、さらにその可能性を感じてほしいと願っています。不思議なことにこのことは子どもたちに接する時も同じようにしている気がします。ときどき、子どもたちにもピカソやマグリット、ゴッホたちを紹介し模写もどきの課題を与えて楽しむことも同じ意図があります。

浜桐さんにも元永語録から“て”のつく言葉を紹介しましょう。

「展覧会終わってほっとしないこと でないとまた一にもどる 手慣れるとマイナスになる 天才でない人は一人もおらん」と。

昨年の県美で初出品初入賞を果たしたあとの“燃え尽き症候群?”がいけなかったかも・・・。とはいえ、いろいろな事情がかさなった中でのことだからやむなしというところか。

作品はやはり見ごたえのある50号で参加できてよかった。だが、実をいうとこれは未完の作品でいま制作中の50号とセットで完成させる構想があり今も懸命に制作中です。ますます貪欲に制作を進めてほしいと思います。

中澤さんはやや構図が小さくなる欠点がありましたがそれは何とか克服できたように思えます。もともと実直なところがあってやや画風もおとなしい気もしますが、大きなミカンを描いた作品がそのあたりの問題を払しょくする効果があってよかった。

若いころ、岩国の錦見におられた水彩画家の佐藤義男さんに学んだことがあるということでした。だからというわけではないけれど、ぼくはこの人に佐藤さんの画風の透明感を研究してほしいと思っています。佐藤さんの画風は大胆でいわゆる“塗のこし”がふんだんにある飄々とした画風で開放感のある心地よさが持ち味でもあったのですが、最近ではそういう画風はあまりみられなくなっています。

ぼくは中澤さんにその大胆で開放感のある水彩画を研究してほしいと願っているのですがそう簡単にはいきまへん(元永調)

 

さて、お楽しみの安永さんこの人は飛んでいる。何を考えているか分からないところがあっておもしろいです。それでも元永語録の中から紹介すると「下手は下手でええねん! 上手な人は下手に描けん 下手な鉄砲 数うちゃあたる」「ピカソも我流やで ひらめきがきらめきになるんや 火のおもしろさ、水のおもしろさ 光、水たまり、鼻の穴とか イメージは自然の中から出てくる」「わざと下手らしいのはいや」「好ききらいはしゃあない スランプはない 好きなことしたらええねん 好きなことは続く」等々。

作品はマンガ調の独特のもので元永語録をまっしぐら、鳥獣戯画もびっくりするくらい飛んでいるからいい。絶好調のまま突きすすんでほしいと思います。会場でもひときわ気になる作品でした。だけどこれからさきが問題、吉とでるか凶とでるか、それはなぜか分からないけど2020年のお楽しみ。

玉井さんは自ら学ぶことを学んでいただきたいと思っています。つまり、与えられること(指示)を待つのではなく、かなり自力もついているので貪欲に制作に向き合うことが大切になっています。

例えば、“モネの日の出”を研究するならその港のことや背景について調べて確認すること、換言すれば自ら研究してモネの表現を学び自分の作品を考える、とでもいうような自発的な取りくみということでもあります。あとは失敗を恐れないこととビビらないこと、絵の失敗は描きかえればいいだけのことだから・・・。車をぶつけることとは大違いです。

だけど、小さい筆を捨て大きい筆さばきで描くことを要求すると“渓流を描いた作品”のように大胆な作風になったようにも見えます。

 

いつだったか山本さんと自ら日本美術応援団を名乗る美術評論家の山下裕二さんと作家・美術家の赤瀬川原平さんの共著にある“乱暴力”について話したことがありました。雪舟や長谷川等伯らの作品にみられる大胆さと繊細さにふれ二人が対談するものだったが、山本さんの作品にも乱暴な要素を加えるとどんなことになるのだろうと考えたのです。

今回の出品された5点にもそういう要素が加えられたものがあったけれど案外うまくいっている感じがしました。

静物画のモチーフにポップな色彩感覚と乱暴力を加味するとどうなるか、そういう好奇心から生まれた作品は思いがけないモダンな現代絵画として成り立っています。

今はさらに画面の均質化を加味した大作を制作していますが日々模索している状況です。

 

小方さんは残念ながら体調不良で今回は会場に来られなかったのですが何となくユーモラスな画風が大人気。

擬人化された猫やニワトリやクマといった作品は上手いとか下手とか関係なくほのぼのとした味わいがあって掛け値なしで良かったと思います。岩国ではこういうユーモアのある作品が見当たらないこともあっておもしろいと思います。

とりわけ「ラッパを吹く猫」の作品は思いがけない傑作といえるのではないでしょうか。

 

と、かくいう私は個々の作品について長々とツベコベいってきましたが、自分のことがほとんど分かっていません。他者のことは分かっていても案外自分のことは分からないものですが、折しもノーベル賞を受賞された本庶佑博士の“混沌”という言葉と山口県美展の審査でおなじみの元永定正具体美術協会 絵本作家)さんの元永節が炸裂する語録をまとめた本に出合い、このような批評にもならないたわごとを連れずれなるままに書きつくしてしまいました。あしからず・・・

 

伝説の水西ロンド 2018.7.21

 

今から30年近くも前のことになるけれど、岩国にユニークな文化活動をする《水西ロンド》というグループがあった。だが、その組織のことをいろいろな人に聞いて調べてみてもどういうわけかはっきりしたことが分からない。

つまり、いろいろな人が個別にいくつかの企画にかかわっただけで、この組織の活動やその全体像について知る人にお目にかかったことがない。組織の中心にいた人物が五橋建設社長の襖田誠一郎であったことは何となくわかっているものの詳しいことは今もって不明のままなのである。

残念なことにはこのユニークな活動を芸術文化都市と宣言する岩国市の文化関係者や行政担当者でさえ誰も知ることがなく、結局のところ何の資料も保存されないまま一部の市民の記憶をのぞいて忘れ去られる状況となっているのである。

だが、この活動にかかわった当時の若い人たち(いまは還暦をすぎてしまったけれど)には多大なインパクトと影響をあたえ、今も彼らの語り草として伝えられている。

ぼくの知るところではかつてこれほどまでに全国から注目された岩国の文化事業はなかったと云っていい。だが、その痕跡をたどることさえできないことはいかにも残念でならないのである。

行政機関にも図書館にも資料として保存されるものはなく何もなかったように無視されるのはなんとも残念な気がするし悔しい気もするのだ。

芸術文化都市と大きな看板をあげるだけでは市民文化は成り立つはずもなく定着することさえできないだろう。このように岩国が直面する問題は基地問題のみならず、市の文化活動を支える後継者が出てこない現状もきわめて深刻な事態であるし大きな問題といえる。

 

企業メセナ協議会の辻井喬(同協議会理事、作家、詩人)は機関紙「メセナnote」に日本国憲法の前文を引用しながら、この国の文化について記述している。国際社会が「専制と隷従、圧迫と偏狭」をどれくらい除去しようとしているか、アメリカは何をしてきたかなど疑問とし、この国が敗戦から60年以上を経て「国際社会において名誉ある地位」を占めることができたかという点において文化の問題を指摘した。

「名誉ある地位」を占めることができないのは、政治家の水準が低いからばかりではなく、そのような政治家を選ぶ有権者の文化力とでも呼ぶべきものにも大いに責任があるのではないか、さらに外交と文化の問題にふれ、文化の力が政治の質を改善し経済人の行動を高めることによって、各国の日本への信頼感を強めることもできるというのだ。いうまでもなく、その国の文化力というのは、建物の数や書籍などの部数ではなく、その内容だとしている。また、文化をサポートすることは決して文化好きな人達のみの問題ではなく、国の将来と深くかかわっている、と。

話を分かりやすくするためにこの国を岩国市に置き換えてみるといい。岩国の現状はどうかといえば文化協会に寄りかかっているだけで担当行政独自の自主企画として地域づくりに貢献できる文化事業は皆無に等しいといっていい。

それはともかく、ここでは「伝説の水西ロンド」として彼らの活動を思いおこし、わずかにぼくの記憶に残るものだけを記述しておきたいと思う。

 

《水西ロンド》は当初からその組織名で活動していたかどうかさえ定かではないが、ぼくの知るところでは最初の取りくみとしては①福田豊土という役者の朗読だったように思う。

その頃、わが家は横山にあって狭い借家にいろいろな友人が集い「夜の会」と称して酒を飲みながら社会や文化の問題について語り合う勉強会のような遊びごとを明け方まで延々と続けるという宴を月ごとにしていた。

その席で岩国の横山に在住する高校教師Ⅿから「バカなことをする同級生がいて」とその朗読のことを教えてもらったのがはじまりだった。

その後、②川西太鼓とベーシストのピーター・コバルトとのDUOパフォーマンスと続いた。これは何処で行われたのかもぼくは知らない。

ピーター・コバルトについても誰がつれてきたのか知らないが、襖田自身がすべての企画にかかわってきたのかさえ知る由もない。おもしろいのは後にぼくたちとも馴染みのあるコントラバス奏者・斎藤徹との共演でコバルトのことを知ることとなったという繋がりも考えてみれば不思議なことである。

さらに、③舞踏家・芦川洋子ひきいる白桃房による公演が吉川家の別邸・水西書院にて行われた。この公演は大変おもしろく画期的な舞台だったと思う。観客は座敷にて鑑賞するが演じる舞踏家らは一段下にある庭を舞台として演じるもので座敷いっぱいの多くの観客を楽しませてくれた。だから上演中に岩徳線の電車が通過したし、詩人の杉本春生さんもおられて一緒にこの舞踏を楽しんだ記憶がある。公演前日には白桃房はデモンストレーションとして錦帯橋でも舞踏を演じ、観光客から怪訝な眼を向けられ、かなりの顰蹙(ひんしゅく)を買ったということも今やおもしろいエピソードとして伝えられ記憶されている。

 

その後、錦帯橋と川原一帯で行った1988年の環境アートプロジェクト。あいにくこの頃のぼくは高知で行われたポリクロスアート1989展にかかわっていて詳しい経緯を知ることもなかったのである。

このプロジェクトは当時としてはめずらしくアートが美術館やギャラリーを出て社会と積極的にコミットする動きとして注目された。大倉山アートムーヴなどとともにその先駆けとして注目されたのである。

 

このプロジェクトに参加したアーティストも全国的に注目されていた柳幸典、霜田誠二、スタン・アンダーソン、池田一、土屋公雄、千崎千恵夫らが集結し殿敷侃とともに現地制作し大きな反響と県内外からも多くの観衆を集めたのであった。

わずか3日間の会期中に白為旅館の3階で行われたシンポジウムでも美術関係者のみならず多くの観衆で満席となり参加アーティストや美術家、美術館学芸員やジャーナリストの参加で熱気を感じさせ地元の若者にも大きなインパクトを与えた。

このことは環境アートプロジェクト図録と平成の錦帯橋架け替え事業にともなう解体材料を使って取りくんだぼくたちのアートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト図録における実行委員長で詩人・野上悦生の「錦帯橋伝説異聞」(アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト実行委員会)を参照されたい。

また、その錦帯橋プロジェクトで横山の洞泉寺で行われたシンポジウムにおける美術ジャーナリスト村田真による記念講演でもそのことは詳しく紹介されていた。

 

だが、このような画期的な取りくみに対して岩国市の文化協会をはじめとする美術関係者や教育関係者のコミットが一切なく、ほとんど無視されていることも不思議な現象として特筆しておかなければならないだろう。

その後、《水西ロンド》の活動がどのような経緯を辿っていったのか不明のままなのだが、当時の状況を考えてみれば今のように芸術文化基本法もメセナ活動もなく助成制度も整わない状況下で、資金づくりから企画立案を含むこれほどの事業に使うエネルギーを想像してみるだけでも決して無視されていいはずのものではなかった、ぼくはそう思う。

近ごろの行政府のように好き好んでやっているのだから自己責任だと云うかもしれないけれどそれはちがう。身柄を拘束されたジャーナリストやタイの洞窟から救出された子どもたちを自己責任と決めつけ否定することはできない。江夏の21球でさえ自己責任というなら野球も文化も芸術もありえないし学問の進化も成立しないだろう。

大そうなことをいうつもりもない。今ではSNSやインターネット、PCによるデジタルデータを記録することも可能になったけれど、襖田誠一郎のことを思えば《水西ロンド》の記録は記憶に残るだけでいいのか、という残念な気持ちがこみあげてくるのである。

彼自身は「いまさら・・」と苦笑するだけかもしれないけれど、これから文化活動や地域づくりにかかわる次世代の市民にとってこの活動を知るすべもなく、顕彰や研究さえできない現状は決して満足できるものではないしきわめて残念という他ないのである。

 

 

共有した時間と記憶『地図を広げて』岩瀬成子著 2018.7.02

 

家族とはなんとも切ないものである。この小説を読んでいてそのようなことを思いながらふと自分のことをふりかえる。この本にでてくる鈴や圭とおなじ子どものときと父として家族の一人でいるときではまったくちがってくるのだが、とりわけ子どもの視線とその感覚のことを思えば、子どもは所与の条件をのみ込んだまま全身の感覚機能とありったけの神経をつかって日々のできごとに対峙していることがわかる。子どもの世界認識や体験のあり方そのものがそうなのだと云ってしまえばそれまでだが、著者はそのことを本当にリアルに描いていることに驚嘆する。

前作『ぼくが弟にしたこと』(理論社)について著者は「どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えないことだとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは」と記している。

 

家族を描いた作品は映画や文学のほかにも多々あるけれど、ここでは13歳の中学生になったばかりの女の子鈴の繊細な視線でみごとに描かれていることに驚くのだ。この生々しいまでにリアルな子どもの感覚とまなざし、それを描く作者は「文体」ということで考えれば〈現在〉という点においてどのような関係にあるのだろう、などと不思議な気がしてくるのだ。

たとえば、書くことで子どもを追体験しているとでもいうのだろうか。そしてまた追体験ではなく作者の〈現在〉として開かれている小説だと考えれば、当然のことながらそれこそが「文体」というものであり小説を書くことの思想というものであろう。それゆえに、本著は児童書というカテゴリーに風穴をあける魅惑的な試みといえるし、子どもから大人まで幅広い読者を対象とする傑出した小説ともいえるだろう。

 

物語は親の離婚によって離ればなれになっていた姉弟が母の死によって4年ぶりに父と一緒にくらしはじめるというもの。ここでは随所にさまざまな記憶がよびおこされる。つまり、鈴の記憶をたどりながらお互いをおもいやり新しい家族の関係を手探りでつくるという日々のようすが静かな調子で丁寧に描かれていくのだ。このことによって開かれる世界はある意味で著者にとっても新しい境地といえるのではないだろうか。

そういう新しい家族の日々をサポートするようにやってくる巻子という女性がいる。お父さんとおなじ高校に通った同級生だ。巻子さんは別の同級生と結婚して別れたのち「うちの年寄り」とよぶ自分の母とくらし絵画教室をしていて時おりやってきては食事をつくったり鈴たちと一緒に出かけたり他愛のない会話をしたりする。

 

「子どもって、なにかと苦労だよ。大人になるまでのあいだの荒波を一人で越えるんだもんね。波の大小はあるにしても。子ども時代をよく生きのびたなって、この歳になって思うこともあるの。親は自分が育ててやったみたいな顔をしているけども。ちがうんだよね」(p138)

 

もう一人、この物語の重要な人物として月田という同じ中学に通う同級生がいる。ふたりは学校の環境に違和感をもちながら今を生きる唯一の友だちとなっている。ふたりの存在は現在を客観視する設定ともなっていておもしろい。

お母さんとお父さん、ここでは夫婦の生々しい葛藤が描かれているわけではない。いうなれば、鈴(わたし)の視線を中心に家族へのおもいと記憶が震えるほどの繊細な感覚で捉えられ描かれているのだ。おもえば、自分自身にとってみても家族と共有した時間の質と量、その日常の記憶そのものがすべてのように思えてきたのだがどういうことだろう。

他愛のないことでお父さんと気まずくなったとき、鈴はお母さんの記憶をたどる。

 

生きていたお母さんはわたしを残していくことはできるけれど、死んでしまったお母さんはわたしや圭の前から消えただけじゃない。過去になってしまったのだ。過ぎてしまった時間の中にしか、お母さんはいないのだ。でも、ほんとうに?ほんとうにそれは過ぎてしまった時間なのだろうか。(p123)

 

母とともに共有した時間と記憶そして死、ほんとうにそれは過ぎてしまった時間なのだろうか。この鈴の問いそのものがこの作品の主題となっているような気がしてならない、ぼくはそう思う。

圭と鈴は4年前に一緒にくらした細江町のアパートをたずね共有した記憶をたどるように4年間の空白をうめていくが、やがてふたりは自分たちのマンションへと向かう。

日が暮れた空に輝いている月をみてふたりが「おお月だ」「きれいですな」という場面がある。「さ、帰ろうか」といって圭の肩に手をまわす最後の場面、それは本当に感動ものである。

『地図を広げて』まさしく《記憶》に残る作品といえそうだ。

 

 

衝撃的な展開と筆力『ヘヴン』(川上未映子著)2018年6月27日

2009年に出版されたものだが、いまになってはじめて川上未映子の作品『ヘヴン』を読了する。だが、いま読みおえても10年間の隔たりはまったく感じられないことがわかる。
本著はきわめて衝撃的な作品とはいえ物語の構図はきわめてシンプルといえる。つまり、苛める側とそれを受ける側のはっきりした二極化で構成され描かれているのだ。だが、この作品がおもしろいのは苛めの対象となった二人が接近しコミュニケーションをとりながら過酷な状況をのりこえようとするところだろう。
生々しい苛めの描写だけでなく読者をひきつける力強さと緊張感その筆力はきわだっていて説得力もある。それゆえに作品のインパクトは衝撃的でさえある。
ひと言で苛めといっても現代社会が抱える特異な病理現象のようにみられがちだが、ある意味で私たち人間が抱える普遍的な命題とも考えられるのである。

ここでは周囲の人とは少しちがう些細なことから苛めの対象とされたコジマとロンパリとよばれるぼくが設定される。つまり、ぼくは斜視でコジマは汚れた容姿をもつだけで一方的に苛められ抵抗さえできない状況にあるのだ。しかもその過酷な状況はクラスの全員で共有されていて“外”には決して洩れ伝わることも家族に知られることもない。二人は手紙を通じて互いに言葉を交わし、ときどき会って話すようになっていくが二人への苛めはますますエスカレートする。二人の関係は手紙のやりとりで少しずつ心の支えともとれる存在に変わっていく。
コジマは自分の家族について離婚した父と母の暮らしと目茶苦茶になっていく家族の関係について感情をぶつけるように語る。別の人と再婚して裕福な暮らしを自分と母はしているけれど、靴も作業着も汚れたままひとりで暮らす父への思いについて熱く話すのだった。

「・・・わたしがこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにってだけのことなんだもの。お父さんと一緒に暮らしたってことのしるしのようなものなんだもの。・・・」(p94)

「わたしは君の目がすき」とコジマは言った。
「まえにも言ったけど、大事なしるしだもの。その目は、君そのものなんだよ」とコジマは言った。(p139)

さらに、コジマは弱いからされるままになっているのじゃなく、状況を受け入れることによって意味のあることをしているという。やや自虐的なロジックに聞こえるけれどそれなりに説得力はある。
苛めの状況はさらにエスカレートしていく中でぼくはある日、二宮とともに苛める側にいる百瀬と激しく言い合うことになるが物語は思いがけない展開をみせる。病院の医師から斜視の手術のことをすすめられそのことをコジマに打ち明けるがコジマは大きく動揺し混乱する。
最終章の雨の日のくじら公園でのできごと、斜視(しるし)の手術をすることへの決断、物語はいよいよクライマックスを向かえていく。
本著は表面的には権力、暴力、欲望、支配というおよそ人間の理性とは対極にある行動原理のあやまちと正当性について問いかける作品ともいえそうだが、最近のトレンドでいえば反知性主義とでもいったところか。
なるほど、この圧倒する筆力と読者をひきつける凄まじい展開は衝撃的であり見事というほかない。川上未映子、並々ならぬ才能とすぐれた言語感覚を持ちあわせた作家であることはまちがいない。

 

ジャポニスム論の草分け 『ジャポニスム―印象派と浮世絵の周辺』 大島清次著 2018-05-16 

「学術をポケットに・・・」講談社の野間省一氏は学術を巨大な城のように見る世間の常識に反して学術の権威をおとすものと非難されるかもしれないが、それは学術の新しいあり方を解しないものといわざるをえないと明言する。また、開かれた社会といわれる現代にとって、このことはまったく自明である、としてこのシリーズの刊行意図について述べている。

19世紀後半のフランスにおける印象派美術は芸術至上主義の名のもとにいきづまり大きなまがり角にさしかかっていた。
そのような時代において成立条件も美意識さえも異なる日本の浮世絵、とりわけ北斎や広重、歌麿たちの肉筆画や版画表現や価値観がモネをはじめゴッホやロートレック、ゴーガンなど当時の印象派の画家たちに驚きをもってむかえられたという。
「ジャポニスム」はシリーズ刊行にあたってその意図を述べた野間氏のまなざしともかさなっているようにみえる。そもそも芸術や学問の世界自体が既成の価値観や美意識を相対化する作業と営みであることを思えば自明であることを疑う余地もない。
だが、日本の浮世絵の成り立ちが江戸町人の生活に根差した行為であったことはヨーロッパの芸術至上主義の状況下において重要な意味をもったにちがいない。
本著「ジャポニスム」の原本は1980年に美術公論社から刊行されたもので、その核をなす論考はさらに10年前にさかのぼる雑誌「萌春」に連載されたものである、と著者自身「原本あとがき」に記述している。
「ジャポニスム」とは何であったか。
その研究の“草分け的こころみ”となる本著では、とりわけエルネスト・シェノー、テオドール・デュレという二人の美術批評家をはじめサミュエル・ビングや林忠正らが果たした役割に注目している。このことは日本美術のみならず、茶道や禅といった粋やわびさびに通ずる美意識をもつ「総合芸術」ともいうべき江戸町人の生活文化に根をおろす「民衆芸術」など広範な比較文化論として受けとられ注目されたとしている。
モネやロートレック、ゴッホやゴーギャンならともかく、ルノアールさえも「非均衡」説にあわせるように「不規則主義宣言」等々こうした日本文化に影響されたというのも不思議に思えたのだが、シェノーの論考に刺激されたのだろうか。

日本美術における装飾性と工芸的要素の問題は個人的にもきわめて興味深い論点でもあるけれど、「ジャポニスム」論それ自体が構造的に近代やアイデンティティ論をともなう学問としての可能性をもつ体系的な文化論として構造主義的まなざしをもって注目されたことに驚かされた。
パリ万博といえば明治維新、西洋啓蒙主義と富国強兵につきすすむ日本の歴史と逆行するようなフランス美術界におけるジャポニスムという文化現象のあり方も不思議でおもしろいと思えた。
歴史はくりかえされるというけれど現代が直面する政治や経済産業問題、さらには地球環境規模の問題を考えるヒントが「ジャポニスム」論の中に見えかくれしているような気さえしてくるからなおさらである。

そういえば、デイビット・ナッシュやエコロジー美術の動向に注目し日本に紹介してくれたのも栃木県立美術館時代の著者・大島清次氏であったことを思いだしたところである。

 

 

 

「作品」という曖昧な体験 『おわりの雪』 ユベール・マンガレリ著 2018年4月17日 

ユベール・マンガレリ、すごい作家に出会ったものだ。この文体、それはまさしく驚嘆に値する。
訳者あとがきにおいて、田久保麻里さんは著者について「しんと心に沁みこむような静けさのただよう文体で描く異色の作家である。」と紹介している。「そっけないほど淡々とした、やさしい言葉でつづられる作品は、読みこむほど重みをましてゆく。」とも・・・。
さらに、マンガレリは児童文学作家として出発しているけれど、彼を「児童文学出身の作家」と呼ぶべきではない。六作を数える初期の作品が「主人公が子供だったから」という理由で児童書のシリーズに収められはしたものの、決して子供のためだけに書いていたわけではないからだ。彼の小説の魅力は、「児童小説」と「(大人むけの)一般小説」といった枠を越えたところにこそあるといえる。

確かに、田久保さんは「枠を越えたところにこそある」と強調しているのである。
この作家のまなざしは病や貧困、おそらく社会的弱者としての子どもや老人にむけられ、いうなれば不安と隣り合わせで生きるやりきれない現実を深々と雪が降るように書き続けることにあるといえる。そして、この様式とモチーフは今でも変わることなく続けられているという。
けっしてドラマチックな出来事が起きるわけでもなく、日常の限られた時空間のなかでくりかえされる単調な生活のようすが少しずつ動いていくその差異性こそが確かな意味をもってくる、というきわめて微細な心の変化に本質的なものを探りあてようとしている気がする。

ひところ、「児童文学とは何か」などという不毛な論議がくりかえされたこともあったけれど、本著ではそのような空しい問いへの逆行はありえない。何故ならそれは「作品」という曖昧な体験にたえうる強靭な思考とでもいうべき経験にほかならないからでもある。
つまり、重要なことはそのことを通じてはじめて「作品」はおそらく思想たりうる可能性をもつということなのである。それはもはやなんらかの思想の表現なのではなく、「思想」そのものなのだ。
換言すれば、児童文学の思想というのではなく、児童文学であろうがなかろうが彼の小説そのものが思想というべきであり、この無名の思想をぼくたちは文学といい芸術とみなそうとするのである。
ユベール・マンガレリのこの稀有な文体はまさしくそのことを実証する傑出した小説といえるだろう。

本著『おわりの雪』で意図されていることはおそらく「死と記憶」にあると云っていい。マンガレリはあえて不必要なディテールを曖昧にしたまま、小さな町でひっそりと生活する父と子、母の三人でくらす家族のようすをくりかえすように静かに描いている。
設定されているのは、病床の父、決められたように出かける母、養老院でお年寄りの散歩を手伝う仕事で家計を助ける子、養老院とその管理人ボルグマン、ブレシア通りにある雑貨屋のディ・ガッソという人、この限られた時空間の中でくりかえされる日常はいうまでもなくミニマリズムと抽象性を意識させる。
だが、ぼくたちは母が出かける場所のことも父の病気についても知らされることはなく、いつしか物語の現実と描かれた人たちの内面性に引き込まれている自分に気づくのである。まさしく、それは読書する経験の常として更新されるように否応なくこの作品の意味の厚みを考えることになるのである。

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