写真のシャーマン 地球に謳う ―長倉洋海の出会った人と光景―(長倉洋海著 日本写真企画)2024.11.22
本著に登場する国は35か国、41箇所という。故郷の「釧路新聞」に『長倉洋海の世界』として月1回、7年にわたり連載されたものに5本のエッセイと新たな写真やイラストをこのような形にまとめたものとある。
長倉さんは大学時代、「探検部」に入部して写真と出会い卒業後に写真家になった。「いい写真を撮るためには死ぬことも厭わない」と覚悟を決め、戦場カメラマンとしてアフリカ、中東、東南アジア、中米と戦争と内乱の地を駆け巡ったという。
レバノンの内戦取材中、命からがら最前線から脱出したときにラジオから聞こえてきた華麗な旋律のピアノソナタを耳にしたとき「いま自分は生きている」と実感した。それはずっと忘れていた感覚だったという。その後、アマゾンやシベリアを取材するようになって、「自分」と「自然」を別のものと考えるのではなく「自分も自然の一部」と考えそのリズムと流れに身を任せる生き方が、次第に見えてきたらしい。
確かにそうだ、ここにあるさまざまな国のさまざまな状況下にある人々のくらしを撮ったどの写真にも〈祈り〉ともいえるまなざしと生かしてくれているものへの敬意と喜びが感じとれるすばらしいものだった。
中米のエルサルバドルは長倉さんが「フォト・ジャーナリズム」の原点となった国だという。
最初は熾烈な戦いを撮ろうとしていたが、内戦下の人々の生活を見る中で、彼らの生きる姿を伝えたいと思うようになった。足繁く通ったのは中央市場。内戦で失業した夫に代わって、女たちが家計を支えようと働いていた。その傍らで、母親を手伝い、バナナやトマトなど子どもたちの姿があった>(p284)
市場近くのバスターミナルで長倉さんが兵士に不審尋問されたとき救世主があらわれた。「この人は写真を撮っているだけで、悪い人じゃないよ」と近くで新聞を売って働くビルマという12歳の少女だった。その少女の成長と暮らしぶりを紹介する10年越しの取材は「何が欲しいって?君の愛とぼくの小屋と、一本の木、一匹の犬、それから前にひろがる空と丘、そして花咲くコーヒー畑」とエルサルバドルの詩人・エスピーノが謳った人々の姿そのものだったという。
ドキュメント映画「祝の島」(纐纈あや監督作品)もそうだった。島の住民は対岸の原発建設に反対だが監督は美しい自然とともに生きる島の人々のくらしと生き生きとした表情に誇りと喜びを感じ敬意をはらって撮っている。直接的に声を上げ「原発反対」というのではなく、この美しい自然とともに生きるくらしを破壊されていいものかと問いかける。
長倉さんはこの本の冒頭に次のように記している。
どの地域もさまざまな問題を抱え、生きていくことは決して楽ではありませんでしたが、その中で私が魅かれたのは、過酷な環境でもまっすぐに生きようとする人たちの姿でした。彼らを支えていたもの、故郷と家族、友、歌や踊り、伝統と知恵、祈り、生かしてくれている者への敬意。
そして、最後には私はシャーマンになりたいと記している。
シャーマンは天と地、生と死をつなぐ人。(-略)カメラを手に空を飛び、好きな場所に降り立ち、時を縦横に泳ぐ―。そんな「写真のシャーマン」に私はなりたい、と。
写真家・長倉洋海さんのすばらしい写真エッセイ「地球に謳う ―長倉洋海の出会った人と光景―」は通常の写真集とは異なり、一瞬でとらえた写真表現の圧倒的な伝達力と美しさと写真に添えられたみごとなエッセイ、イラストで構成するなんとも贅沢な企画本となっている。
いま、世界を知るにはこれが一番!
おどろくほどの丁寧な取材とこの写真家の眼差しが手に取るように伝わってくるすばらしい一冊といえるだろう。
新世代への大胆な提言 人新世の「資本論」(斎藤幸平著 集英社新書)2024.11.2
うーん、これは晩期マルクスの資本論をめぐる新資料の読み解きから新たな研究と論考を加えた『脱成長コミュニズム』によるポスト資本主義と「人新世」の気候変動、環境危機を克服するための大胆な構想を目論む大著といえるのではないか。
本著のまえに『ゼロからの資本論』を読んでいたのでこれだけの大著にも拘らずたいへん分かりやすく読み応えもあった。とはいえ、多方面での研究書を解析しながらこの大胆な構想を企てるラディカルな考察は学術的にもきわめて説得力のある研究論文といえるのではないだろうか。50万部を突破し世界各国でも翻訳出版される道理も分かる気がする。
今ある地球環境の切実な問題において著者は、かつてのマルクスが資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判したように、国連が掲げたSDGsさえも現代版「大衆のアヘン」であるという。人新世の地球は開放定常系の水惑星とはいえそれだけ危機的な状況にあるということだろう。
本著はマルクスの資本論を折々に参照しながら「人新世」における資本と社会と自然の絡み合いを分析していく。もちろん、これまでのマルクス主義の焼き直しをするつもりは毛頭ない、一五〇年ほど眠っていたマルクスの思想のまったく新しい面を発掘し、展開するつもりだ。(p6-7)
と、はじめにこの気候危機の時代により良い社会を作り出すための想像力を解放してくれるだろう、と前置きしている。
著者はまず気候変動のからくりを帝国的生活様式すなわちグローバル・サウスからの資源やエネルギーの収奪に基づいた先進国のライフスタイルにあるとし、外部化社会を作り出すという犠牲に基づいて成り立っていることがこの問題を分かりにくくしている、という社会学者シュテファン・レーセニッヒやウルリッヒ・ブラント、マルクス・ヴィッセンの主張をとりあげる。このことは労働者や地球環境でも搾取の対象となっているとも指摘する。
つまり、人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は自然もまた単なる掠奪の対象とみなす、このことは本書の基本的主張のひとつでもある。だが、人類の経済活動が全地球を覆ってしまった「人新世」とは、そのような収奪と転嫁を行うための外部が消尽した時代であるとし資本主義がどれだけ上手くいっているとしても究極的には地球は有限である。外部化の余地がなくなった結果、採取主義の拡張がもたらす否定的帰結は、ついに先進国へと回帰するようになると厳しく指摘する。
ここには、資本の力では克服できない限界が存在する。資本は無限の価値増殖を目指すが、地球は有限である。外部の消尽がいきつくところまできた今、日本のスーパー台風やオーストラリアの山火事など、その被害が先進国でも可視化されるようになっているのである。(p37)
気候変動対策の時間切れが迫るなか、私たちは何をなすべきか。これが本著の主要目的であり動機となる最大のテーマといえるだろう。
この転嫁による外部性の創出とその問題点、資本主義は自らの矛盾を別のところへ転嫁し不可視化する。そして、一九世紀半ばにしてこの矛盾が深まっていく泥沼化の惨状が必然的に起きることを予言していたのはカール・マルクスだったという。
外部の消尽はいままでのシステムが機能不全を起こす歴史の分かれ目をむかえ、資本主義のシステムは崩壊し混沌とした状態になるのか、別の社会システムへと移行するのだろうか。その希望として「グリーン・ニューディール」などという気候ケインズ主義が「緑の経済成長」「SDGs」と銘打って登場するのだが著者はその限界を次の章で詳しく解析する。
ここでは「デカップリング」という概念について言及する。「デカップリング」とはもともと経済や環境の分野で広く使われるらしいのだが、「経済成長」すれば「環境負荷」は増大するというこの連動と関係性を技術開発で分離し克服するという考え方である。著者はその盲点(ワナ)について様々な考察を重ねる。かくして市場原理では気候変動は止められないことへと導くのだ。つまり、気候ケインズ主義は市場を刺激するだけで規制がないとして、気候変動のような不可逆的な問題にとっては危険で致命的な過ちになると断定する。
また、持続可能な経済成長や「緑の経済成長」による現実逃避はこれまで以上に帝国的生活様式を強化し周辺からの搾取と抑圧を生むとなれば私たちもその報いを受けることになるというのだ。
困難な状況のなかで本著はついに「脱成長」を提起するのだが、それですべてが解決できるとは限らない。重要な問題としてどのような「脱成長」をめざすかということが問われてくる。つまり、資本主義システムにおける「脱成長」は本当に可能なのだろうか?「脱成長」と資本主義は両立できるか。著者は次のように強調する。
資本主義の本質的特徴を維持したまま、再分配や持続可能性を重視した法律や政策によって、「脱成長」・「定常型経済」へ移行することはできないとし、脱成長資本主義はとても魅力的に聞こえるが実現不可能な空想主義なのだ、と。
脱成長を擁護したいなら、資本主義との折衷案では足りず、もっと困難な理論的・実践的課題に取り組まなければならない意。歴史の分岐点においては、資本主義そのものに毅然とした態度で挑むべきなのである。労働を抜本的に変革し、搾取と支配の階級的対立を乗り越え、自由、平等で、公正かつ持続可能な社会を打ち立てる。これこそが、新世代の脱成長論である。(p137)
いよいよラディカルな資本主義批判が求められ、中途半端な解決策で対策を先延ばしする猶予はないとして、マルクスと脱成長を統合する「脱成長コミュニズム」という社会システムのあり方が期待されることを強調している。
著者はマルクス再解釈の鍵となる概念のひとつとしてアントニオ・ネグリとマイケル・ハートというふたりのマルクス主義者の共著『〈帝国〉』のなかで提起した〈コモン〉という考え方に注目する。
「社会的共通資本」と比較すると、〈コモン〉は専門家任せではなく、市民が民主的・水平的に参加することを重視する。そして、最終的には、この〈コモン〉の領域をどんどん拡張していくことで、資本主義の彫刻を目指すという決定的な違いがある。(p142)
このように〈コモン〉という重要な概念についてとりわけ宇沢弘文の「社会的共通資本」との相違について言及し、さらに地球そのものを〈コモン〉として管理できればと考える。
〈コモン〉をめぐるマルクスの基本的な発想を重視する動きはネグリやハートの他にも広く共有されたという。そして、マルクスは〈コモン〉が再建された社会を「アソシエーション(相互扶助)」と呼んだことにことさら注目していると思われる。
さらに、マルクスが「生産力至上主義」「ヨーロッパ中心主義」から脱却し、理論的転換に大きな役割を果たしたのは化学者ユストゥス・フォン・リービッヒの「農芸化学」の「掠奪農業」批判だったという。マルクスは自然との循環的な相互作用を考えるようになり、エコロジカルな理論として「物質代謝論」を資本論で展開する。
人間は、自然に働きかけ、さまざまなものを摂取し、排出するという絶えざる循環のなかでしか、この地球上で生きていくことが出来ない。(p157)
このことはまさしく晩期マルクス「資本論」がエコロジカルな視点をもつ理論的大転換といえるだろう。
著者は「マルクスは過剰な森林伐採に起因する気温上昇と大気の感想が濃厚に大きな影響を与え、文明崩壊もたらすと警告していた農学者カール・フラースの本を絶賛し、資本主義のもとでの自然からの掠奪を批判し持続可能な森林との付き合い方を求める主張を「社会主義的傾向」と受け止めるようになった」と注目する。「資本論」刊行の翌年1868年のことだという。
『資本論』以降のマルクスが着目したのは、資本主義と自然環境の関係性だった。資本主義は技術革新によって、物質代謝の亀裂をいろいろな方法で外部に転嫁しながら時間稼ぎをする。ところが、まさにその転嫁によって、資本は「修復不可能な亀裂」を世界規模で深めていく。最終的には資本主義も存続できなくなる。(p164)
「資本論」第一巻刊行後のマルクスはこの転嫁の過程を具体的に検討し、「資本論」におさめきれないほどの研究ノートを残した。これらの資料の研究が注目され晩期マルクスの思想が大きく進化したと思われる。
マルクスの将来社会のビジョンは、最晩年において明らかに大きく変容している。-略-要するに、進歩史観を捨てたマルクスは、共同体の持続可能性と定常型経済の原理を、自らの変革論に取り入れることができた。その結果、コミュニズムの理念は、「生産力至上主義」とも、まったく違ったものに転嫁したのだ。それが、最晩年に到達した「脱成長コミュニズム」である。(p197)
著者はこれこそが最娩年のマルクスの将来社会像の新解釈にほかならないとし、マルクスの歴史観は彼の死後、単純な進歩史観であると誤解され盟友エンゲルスさえも理解できなかったため多くの誤解を生む要因にもなった。マルクスは自分の理論的展開があまりにも大きすぎたために、死期までに『資本論』を完成させることが出来なくなってしまった。
だから、「人新世」の危機に立ち向かうため未完の『資本論』を「脱成長コミュニズム」の理論へと引き継ぐような大胆な新解釈に今こそ挑まなくてはならないと強調している。
次章ではとりわけ潤沢さと希少性という視点から資本主義の欠乏を説き、本源的蓄積(囲い込み)は水や土地や電力など潤沢なコモンズを解体し希少性を人工的に生み出すとそのからくりについて考える。また、労働のあり方も等しく問われている。かつて共同体は「コモンズ」の独占的所有を禁止し協同的な富として管理してきた。
著者は〈コモン〉を取り戻すのが〈コミュニズム〉であるとし、さらに〈コモン〉の(市民)営化、生産手段を〈コモン〉にと説き、市民(労働者)の参加による民主的な〈コモン〉の管理運営化を構想する。
晩期マルクスの思想から読み解く「脱成長コミュニズム」のイメージから導かれた「人新世の資本論」は、著者が前置きしたようにこの気候危機の時代により良い社会を作り出すための想像力を解放し、ポスト資本主義として人新世の大転換を実現することができるだろうか。気候変動による地球規模での大災害がくり返される今こそ必見の大著であることはまちがいない。
知のダイナミズムと活性化 街場の米中論(内田樹著 東洋経済新報社)2024.9.27
冒頭、著者は知性についてこのように言っています。
「ちょっと待って、その話を聴いて、いまふと思い出したことがある。あれは何だったんだっけ・・・・」というふうに自分の記憶の中に入り込むことは知性の活性化にとって、とてもとても大切なことではないかと僕は思います。(p3)
本著は内田氏が主宰する合気道場兼寺子屋と称する「凱風館」で通年テーマ「アメリカと中国」というゼミの発言を文字越ししたものに大幅に加筆したものとある。ゼミでは毎回ゼミ生が演題を選んで発表し、それに内田氏がコメントしたのち全員でディスカッションする形式で20年前の大学院時代からのパターンだという。
著者はアメリカと中国、いずれにしてもこれからの世界の行方を左右する両国に対して日本が外交的に働きかけて彼らの世界戦略に影響を及ぼすということは日本人にはできないとし、国家の趨向性ということを重視している。
あらゆる国家、民族、集団は固有のコスモロジーに基づく、固有の趨向性を持っている。その趨向性と現実の製作が合致すると、爆発的な国民的江エネルギーが解発される。合致しないと(政策そのものが外見的には整合的であっても)努力は虚しく空を切って、何の果実ももたらさない。
アメリカにはアメリカの趨向性(あるいは戦略)があり、中国には中国の趨向性(あるいは戦略)がある。それを見分けることができれば、彼らが「なぜ、こんなことをするのか?」「これからどんなことをしそうか?」について妥当性の高い仮設を立てることができる。(p49)
ここではアメリカの歴史文化とりわけ見聞きした映画や音楽から文学などを紐解きながらアメリカ的なるものに言及し自身の記憶と知見を重ねながら横断的に論考を企てることでより十全で複合的な知性の活力を引き出そうということか。
宗教国家アメリカと民主政、自由と平等の国アメリカと興味深い論考がつづきますが、自由と平等について著者は次のように云っています。
自由と平等の葛藤はアメリカがその建国のときから抱え込んで来た解決不能の問題でした。どちらか一方に軸足を置けば、話は簡単になりますが、それはもう「アメリカ」ではない。…略…両方に片足ずつ置いて、危ういバランスをとらなければならない。アメリカ国民全員が納得する「均衡点」なるものは存在しません。つねに、一定数の国民は「自由が過剰である」か「平等が過剰である」かについて強い不満をもち続ける。でも、それがアメリカという国の開放性と可能性の源泉であるように僕には思われます。(p94)
自由と平等、アメリカはこの相容れない原理をどうやって折り合わせたのか。建国の父たちのそのための創意工夫が合衆国憲法の行間ににじんでいるという。合衆国憲法が常備軍の保持を禁止する理由として、軍隊が時の大統領の私兵と化し政府に反対する市民に銃を向けることを絶対に許さない、と独立戦争の経験知を指摘している。だが、葛藤がないわけではない、連邦議会襲撃事件や頻発する銃による大量殺人事件をみれば火を見るより明らかだろう。
第6章「リンカーンとマルクス」という仮説では、1948年の欧州各国からの移民とアメリカに及ぼした平等意識の関係の考察はたいへん印象的でおもしろい。
僕たちはふつう世界史「各国史」を勉強しますので、国を越えて横断的に活動する人たちの事績に触れることがありません。でも、このヨーロッパとアメリカを駆け抜けた「48年世代」がアメリカの政治風土に、それまでは主題的には追及されなかった「平等」という新しい課題をもたらしたという歴史的事実は押さえておくべきことだと思います。(p135)
マルクスとリンカーンは同時代人でニューヨーク最大の新聞「ニューヨーク・トリビューン」に依頼されすでにニューヨークではジャーナリストとしてマルクスの名は高まっていて南北戦争直前の10年間アメリカの知識人たちはマルクスの書いた政治記事を読んでいたという。
この自由と平等をめぐるアメリカの葛藤については第7章の国民的和解へ向かうための「葛藤」としていくつかの例を取り上げて詳しく語られています。とりわけマーク・トゥエインとエルヴィス・プレスリーの論考はとても分かりやすく説得力もあっておもしろい。
ハックルベリー・フィンはもちろん典型的な南部の悪ガキです。著者のマーク・トウェインもミズーリ生まれの南部人で、南北戦争では南軍に志願しています(すぐに脱走して西部に逃げてしまいますが)
この物語のどこが独創的であるかというと、これはその時点で南部の人が読んでも北部の人が読んでも違和感を覚えないで読める最初の物語だったということです。(p165)
アーネスト・ヘミングウェイは「すべての現代アメリカ文学はマーク・トウェインが『ハックルベリー・フィンの冒険』と名づけた一冊の書物に由来する。(・・・)これはわれわれが手にした最良の本である。」と絶賛しているという。
エルヴィスはどうか。南北和解の文学的達成をハックルベリー・フィンとすればエルヴィスは音楽的に国民的和解を達成したというのも印象的だが、一方でマッカーシズムと赤狩りが政治家や官僚だけでなく映画や音楽界マスコミを抑圧した歴史的事実も指摘する。
中国論としてははじめに多民族国家としての実情をふまえ統治コストが中国では外敵の侵攻と同じくらいかそれ以上に国内治安に投じなければならない。また中国崩壊のパターンとして次にように指摘する。
失政により統治機構が腐敗し、飢餓が起きて農民の流民化が始まる。その混乱に乗じて地方から謀判の指導者が登場して、それぞれがローカルな「王」を名乗る内戦状態になる。あるいは域外の異民族が帝国内に侵入する。(p182)
いつか見たこの兆候が登場すると中国人はほぼ宿命的に「王朝が終わる」という確信をいだくという。また、中国の趨向性としては世界の中心に中華皇帝がいて「王化の光」を同心円的に放ち「光」に浴した人々は「王化」され中華文明を享受できるという「華夷秩序」をコスモロジーとする国境概念もつことから截然とした線引きがないという。
一国二制度、一帯一路という概念も中国人の総意なのか、それとも独裁者の個人的な偏向なのか軽々には言えないけれど習近平の分離主義や弾圧による独裁体制は鄧小平時代のリスク回避型の外交姿勢とはまったく違ったものとなっているが中国は再び伝統的な「華夷秩序」モデルに復帰するのではないかと希望的観測を記している。
おもしろいのは地政学と民族心理として漢民族は伝統的に東(日本)に向かう趨向性がないとし、習近平の一帯一路も西へと向かう漢民族の根源的な趨向性と中国人の集団的意識と同じベクトルかもしれない。知の刺激とイメージの広がりがおもしろく心地いい。
沈黙は愕きとともに 偶然の音楽(P・オースター著 新潮文庫)2024.9.1
そもそも目的のない旅を続けるということそれ自体がこの小説の目的といえるかもしれない。物語はそこに偶然という出来事が次々と起きてくる。それは必然といえるかもしれないけれど実は何らかの因果で結びつけられていることかもしれない。
この物語では妻に去られたナッシュが亡き父の遺産として突然20万ドルという大金を手にする。まさしく、思いがけない出来事でもありそれこそ偶然というほかない。ナッシュは一人娘を姉に預けすべてを捨てて目的のない旅に出る。
映画「ドライヴ・マイ・カー」のように赤いサーブでアメリカ全土を走行し続け、十三か月を過ぎて彼はポッツィという天才的な博打の若者と出会う。それも偶然の出会いだった。
勝つか負けるか、ナッシュは彼の話を聞いているうちこの若者と組んでポーカーゲームの勝負に賭ける。二人はストーンとフラワーという大金持ちの兄弟を訪ね大勝負を挑む。
「ビルはミダス王です」とストーンは言った。「手に触れたものは何でも黄金に変えちまう。金儲けの才にかけちゃ空前絶後です」…略…何だかこう、神さまがわしら二人を選び出されたみたいな有様でね。わしらに大層な幸運を与えて、幸福の極みに引き上げてくだすったんです。こんなこと言うとさぞ傲慢に聞こえるでしょうが、わしなんかときどきね、自分たちが不死身になった気がすることもあるんですよ」
「ずいぶん景気がよさそうだけど」とポッツィがようやく会話に割って入った。「俺とポーカーやったときは、それほどでもなかったね」
「そうなんだ」とフラワーが言った。「まったくそうなんだ。これまでの七年、わしらが運に見放されたのは、あとにも先にもあのときだけです。ウィリーもわしもあの晩はヘマの連続で、あんたにさんざん搾りとられちまった。だからこそぜひ復讐戦をとお願いしたわけでね」(p112-113)
それこそ偶然の勝利にすべてを賭ける(運命的な生の高まりを欲したのかもしれない)が、二人はその勝負に負けた。それも偶然かも知れなかったが負けた者の常として窮地に立たされた二人は兄弟がアイルランド西部から取り寄せた15世紀の城の石で壁を建てる50日間の労働と引き換えに借金の返済を強いられることになった。
このように物語の構図はきわめて単純かもしれないが二人だけの生活、マークスの監視のもとに与えられた宿舎(トレーラー)との間を行き来する単純な労働をくり返す生活が二人に心理的な変化をもたらしていく。
仕事はのろのろと、ほとんど目に見えないほどのペースで進んでいった。調子のいい朝には、二十五個から三十個くらいの石を溝まで運んでいけたが、それが精一杯だった。(p194)
二人はいろいろな葛藤を抱えながらもこの仕事を続けるほかなかったがポッツィの苛立ちや憎悪とともにみじめな絶望もむき出しになっていった。ナッシュは夕食後の読書もやめて、ポッツィと一緒に過ごすようにし、ポッツィのことをもっと気をつけて見守ってやらねばと思うようになった。
偶然か必然か二人の興味深い対話がある。
「まあな。でもあのときはそうじゃないと思うね。いったんツキが回ってきたら、それをとめられるものなんてありゃしない。世界の何もかもが、いっぺんにあるべき場所に収まるみたいに思えるのさ。自分がこう、自分の体の外に出たみたいになって、あとはもう夜通し、自分が次々奇跡を起こすのを見物しているんだ。もう自分とは関係ないというくらいでさ。コントロールしようったってできるもんじゃない。とにかく考えすぎたりしないかぎり、間違いひとつ犯しようがないのさ」(p203)
「俺には簡単な話に思えるがな。夜のあいだ、かなりのところまで、俺たちは勝ちそうに思えた。ところが、何かがおかしくなって、結局勝てなかった」(p204)
「同じことを別の言い方で言っているだけさ。お前はつまり、何か隠された目的ってものを信じたがっている。この世で起きることにはちゃんと理由があるはずだって信じ込もうとしている。神、運、調和、何て呼ぼうとおんなじさ。そんなのは事実を避けるための寝言さ。物事の真の目をそらす手段なだけさ」(p206)
「俺が狂っているとしたら、俺たち二人仲間ってことだぜ。少なくともお前もこれ以上一人で苦しまずに済む。それって感謝していいことじゃないか?俺はとことんお前と一緒だぜ、ジャック。一歩一歩、旅路の果てまで一緒さ」(p209)
やがて彼らは千個目の石を据えた。
最後の石がついにセメントで固定されると、ポッツィは一歩うしろに下がって、ナッシュに言った。「よう、見ろよ、俺たちやったじゃないか」。(p218)
こうして壁の完成が近づくにつれ物語は徐々に狂おしさとともに高揚感に充ちた出来事が起きてくる。女を呼び寄せた大パーティー、ポッツィの脱走と死、壁の完成、ナッシュの生き方とささやかな祝いごと、そして最後はサーブのハンドルを握ったナッシュが猛スピードで車を走らせる。物語は圧縮した生の緊張が高まっていくように閃光的に死を予感させる。
偶然の音楽とはどういうことだったのか、それは何を意味しているのか。読後の沈黙は愕きとともに哲学的で大きな問いを発しているように思われる。
自分さがしの旅 ムーン・パレス(P・オースター著 新潮文庫)2024.8.15
「ムーン・パレス」はP・オースター自身が学んだコロンビア大学のそばに実在した中華料理店の名前らしいのだが、なにやらこの作品の重要なメタファーとみることも出来そうな気もする。この作品を読んでいてアメリカ人にとってムーン(月)なるものがたとえば手に届くような憧れや希望を感じさせる対象として感覚されているのかとおもえるくらいこの作品が《自分さがしの旅》のように西へ西へと向かうストーリーと重ねられているようにおもえるからだろうか。
本著はそういう意味でも作者自身の自伝的な趣を感じさせるいわば青春小説といえるかもしれないけれど、冒頭の滑稽なほどに自虐的な貧困青春物語にはじまりジュリアードで演劇とダンスを学ぶ聡明で美しい中国人女性キティ・ウーとの出会いによって、物語はミステリアスで複雑な様相を孕みながら読者をグイグイと作品世界に引き込んでいく魅力がある。それというのも物語の後半に差しかかって登場するそれぞれの人物の関係性が明らかにされ、いくつかのエピソードや物語の全貌がはっきりするように構成されていることがこの作品を青春小説の枠にとどまらない不思議な魅力となっているからだろう。
おもえば、ニューヨーク三部作でもこのようにいくつかの時間軸を保ちながら物語を成立させるものがあったけれど、このことは作家自身が「これらの三部作はいずれもみな同じ作品」だということの意味するものと無関係とはいえない気がする。つまり、P・オースターにとって小説を書くことがそれこそ形而上学的な存在のあり方を探求することを意味するからではないだろうか。「幽霊たち」においてはさらに読書体験をふくむ出来事さえも存在のあり方を求めていると考えられるからだ。
ここでは三人の人物の物語が奇妙なかたちで交差するように展開されながら最後には統一された時間と関係性の流れとして完結していく。
主人公のM・S・フォッグは奇妙な老人(エフィング)の世話と彼の話し相手をしながら老人の自伝を書く仕事を得るのだが、エフィングの話は二つの名をもち二人の人生を生きたという信じがたいほどの奇妙なものだった。老人の死後その遺灰を海に蒔き、家政婦ミセス・ヒュームやキティとともに葬るのだが老人の遺言から思いがけない大金を得ることになる。
エフィングの息子ソロモン・バーバーはアメリカ史の研究者となって1944年に歴史学の博士号を取得し、学術誌に多くの論文発表しながらいくつかの大学で教壇に立っていることが分かる。
ソロモン・バーバーとの出会いによってフォッグは自分の母とバーバーの関係を知らされバーバーが自分の父であることを知る。
チャイナタウンでのキティとの暮らし。キティの妊娠と別れ。バーバーの父(エフィング)がかつて画家ジュリアン・バーバーとして旅したユタ州北部の洞穴を訪ねる旅。そしてバーバーの死。何もかもすべてを失ったフォッグは月を見上げて再出発することになる。
なんとも云いようのない偶然が交りこんだ物語ではあるが、この作品が全編を通じて《自分さがしの旅》のイメージと重なるのはどういうことを意味するのだろうか。
二十四年のあいだ、解答不可能な問いを抱えて暮らしてきた僕は、その謎をまさに、僕という人間の核をなす事実として受け止めるようになっていた。僕の起源はひとつの神秘であり、僕は自分がどこから来たのかを決して知ることはないだろうーそのことこそが僕を定義していたのだ。僕は自分のなかの闇に慣れきって、いわば知と自尊の源としてその闇に固執し、ひとつの存在論的必然としてそれに依存するようになっていた。父を見つけたいとどんなに激しく焦がれたにせよ、本当に見つかると思ったことは一度もなかった。(p506)
このことはまさしく読むことと書くことの行為が物語りを通して確認される形而上学的な経験のあり方を現しているようにおもえてならない。さらに云えば、著者のことばを引用すれば滑稽さを加味した大衆的な通俗性と偶然とその因果に存在の源を探る芸術性を合わせてもつ傑出した作品といえるのではないだろうか。
作品と作家の原点 まだら模様の日々(岩瀬成子著 かもがわ出版)2024.7.21
「まだら模様の日々」はこの作家が児童文学の仕事にかかわる必然性と子どもを書かざるを得なかった動機となるものがみてとれる貴重なエッセイといっていい。いうなれば作家の原点といえるものがここにある。それも子ども特有のイノセントなまなざしでとらえたきわめてユニークな読み物といえるのではないか。それにしても原体験となる家族や友だちとの関係性や子どもをとりまく風景や環境、とりわけ母親との葛藤をこれほどまでに詳細に記憶できていることにもおどろかされる。私などは漠然とした記憶はあるもののことの成り行きや前後の文脈についてここまで詳細に記述できるとは思えない。ふつうは曖昧な記憶にとどまっているのではないだろうか。
「大きい家小さい足」(理論社)と重複するエピソードもあるかもしれないが本編では母親との確執と葛藤がかなり徹底して記述されていることが特徴的である。一方、父親との関係としては年齢的なことだけでなくおそく生まれた娘ということも考えられるけれど情愛にあふれた記憶しかないようにみえる。だが、岩瀬は朝鮮に渡った父がどのようにして広大な農地を手に入れることができたかと大きな疑念を抱いているともいう。また、逆にこのような娘をもつ母親自身の葛藤も相当なものと推察される。
本著ではこれらの記憶が作品のインスピレーションに関係するものなのか定かではないが、作家自身が撮影した数枚の写真の収録と後半部は六篇からなる書き下ろし連作短編「釘乃の穴」の三部構成で刊行された何ともユニークな形式となっている。それも誰を対象にして刊行された書物なのかまことに分かりにくいけれど、考えてみればこのような著書があっていいしあるべきだとも思うのだがあまり見かけないようにも思う。それはこれらのエピソードが子ども特有の感覚で書かれたエッセイだからだろうか?いずれにしても岩瀬ファンにとってはある意味でとても有りがたい代物といえるだろう。
「まだらな毎日」と銘打った11篇のエッセイはいずれもこの作家の意識とまなざしが集約された原体験のようなものだが、紛れもなくそれは六篇の「釘乃の穴」という連作短編集という作品と必然的に直結しているといっていいのではないだろうか。岩国の川下という基地の町の一角を自身が撮影した写真もどういうわけかこれらの原体験と繋がっているようでおもしろい。
岩瀬ファンには必見の一冊といえるのではないか。
即効性と遅効性 戦争と農業(藤原辰史著 インターナショナル新書)2024.7.20
食文化について考えるとき江戸庶民の食生活のあり方が理想的だという話を聞いたことがあった。どういうことかといえば、当時の江戸の庶民たちは近海でとれる新鮮な小魚と地元の田畑で収穫した作物や保存食を食べ、自然との共存という点においてもその都度収穫された季節ごとの野菜を食するという理にかなった生活を営んでいたということだった。
だが、今ではトラクターが戦車に、化学肥料が火薬に、毒ガスが農薬になった!
本著では二十世紀以降の食文化のあり方とりわけ食と農業の問題点を戦争の歴史と農業の変遷をふまえ、自然とともにある生物としての人間の姿と摂理(食べること)を軸に考察している。重要なキーワードとして即効性と遅効性という言説がある。
第一講と第二講では農業技術と軍事技術の関係にはじまり、第三講と第四講では政治と社会のあり方その歴史をふまえ飽食と飢餓が同居する現代の食の問題を指摘する。そのことをふまえ第五講の食べることと農業をすることの再定義について考える。
つまり、一見バラバラに見えるこれらの問題が実はすべて繋がっているという。私たちは生のあり方について考えるとき、生の根源である「食べること」が恐ろしく大きく歪んでいることに気づくことになる。いうなればそこをあらためて定義し直すことで現状を乗り越えることが可能かもしれない。
大量に作り、迅速に運び、即座に効く。農業に限らず、軍事や政治、教育においてもこのような仕組みが原則となっている。これらの原則のおかげで、世の中はたしかに一見、便利になったが、迅速・即効・決断の社会は人間の自然への対し方も人間への対し方も、硬直化させ、感性の鈍麻をもたらした、と著者は重要な指摘をしている。
いまのように、何かに急かされる世界ではなく、即効性の世界をうまく生かしつつも、基本的には遅効性によって満たされている世界。仕込んでおいたものが、いつか、どこかで、それがたとえ死んだあとでも花開く、驚きと興奮に満ちた世界。個々の人間の働き方や生き方までも強制的に画一化させる仕組みを、ゆったりとした、それでいて強靭な仕組みに徐々に変えていけないでしょうか。(p180)
この即効性と遅効性という言葉は土壌肥科学で用いられるとし著者は次のように云っている。肥料が作物の栄養改善にすぐに効くか、ゆっくり効くか。前者は工場で大量生産され、後者は微生物の力を借りる堆肥である。遅効性とは、実は、自分以外の人間や人間以外の生物たちの働きに期待し、できるかぎり待ち、その働きを活性化するあり方である、と。
このことは利便性や効率を最優先し生産性を高めることによって競争に勝ち続けるしかない資本主義のシステムと競争原理による今日的な諸問題を克服する手立てとして、「食と農業」の視点から考察するきわめて示唆に富んだ実践的で大いなる可能性をもたらす論考といえるだろう。最後に著者は次のように云っている。
つまり、人間を生命の変化のプロセスの一部であることに存在の基盤を求めその基盤を前提に仕組みを作ること。さらに「食べること」が胃の腑で終わらない永遠性と循環性をもつ現象である以上、人間は、自分以外の人間や生物との、刻一刻と変わる即興的な相互作用のなかでしか生きていけない。遅効性が即効性に先立つ仕組みこそが、生きやすい仕組みではないか、と。
なぜか、福島の原発事故の直前に飯館村がまとめた「までいの力」という本のことを思い出した。それは役場の仕事柄不人気だったスローライフというイメージでもなくクォーリティを考えた地域づくりを意味する言葉として、両の手で時間をかけて丁寧に育てる「までい」というこの地方特有の言葉に気づき納得の「までいライフ飯館」とする地域づくりの構想だった。
一切の形を否定する砂の流動 砂の女(安部公房著 新潮社)2024.3.28
今年は安部公房の生誕100年ということらしい。各誌でいろいろな特集がとりあげられ、演劇活動を含むこの作家の多彩な才能が紹介されている。ということで「箱男」にするか「他人の顔」にするか晩年の「箱舟さくら丸」にするかと考えた挙句やはり映画にもなった本著「砂の女」を再読することになった。
はじめてこの本を手にしたときは衝撃だった。何かの対談だった気もするが安部は手段と目的ということについてことさら興味深い話をしていたのを覚えている。
物語は砂地にすむ昆虫の採集を目的とする男が沿岸の小さな村の砂掻き人夫として捕らえられ砂と格闘する話といえばそれまでだが、まぎれもなく現在が抱えた複雑な問題を照らし出すきわめて寓意にとんだ構造となっている。村を侵蝕する砂の流動を食い止める砂掻きという労働それは目的なのか手段なのか。冒頭、安部公房は次のようにいっている。
「鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追及してみたのがこの作品」と。
砂のがわに立てば、形あるものは、すべて虚しい。確実なのは、ただ、一切の形を否定する砂の流動だけである。しかし、薄い板壁一枚へだてた向うでは、相も変らず、砂掻きをつづける女の動作がつづいていた。あんな女の細腕で、いったい何が出来るというのだろう。まるで、水をかきわけて、家を建てようとするようなものじゃないか。水の上には、水の性質にしたがって、船をうかべるべきなのだ。(p39)
捕らわれの身となった男はこんなことがあっていいものかと訴えるように自問する。
だが、それにしても、ありえないことだ。あまりにも常軌を逸した出来事だ。ちゃんとした戸籍をもち、職業につき、税金もおさめていれば、医療保険証も持っている、一人前の人間を、まるで鼠か昆虫みたいに、わなにかけて捕らえるなどということが、許されていいものだろうか。(p47)
理不尽な恐怖と不安の中で幾度となく脱出を試みるのだが簡単にはいかない。なるほど導入部の掴みといい最後の括りといいサスペンスに充ち満ちた絶妙の描写が印象的である。
八月のある日、男が一人、行方不明になった。休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に出かけたきり、消息をたってしまったのだ。捜索願も、新聞広告も、すべて無駄に終わった。(p3)
とはじまり、最後はこうなっている。
失踪に関する届出の催告
不在者 仁木順平 生年月日昭和二年三月七日
右の不在者に対し 仁木しの
から失踪申告の申立があったから、不在者は昭和三十七年九月二十一日までに当裁判所に生存の届出をされたい。届出のない場合は失踪宣告を受けることになります。また不在者の生死を知っている者は、右期日までにその旨当裁判所に届け出て下さい。
昭和三十七年二月十八日
家庭裁判所(p217)
となっていて、家庭裁判所の審判をもっておわっているのだ。
村を守るための砂掻きという労働、誰でも防砂林でもつくればと考えるだろう。それでも女はこれが一番いいのだという。男はもがき苦しみながらも手段と目的、自由とはどういうことか、存在とはと考えつづけるのだった。
物語は終盤になって思いがけない展開をむかえる。脱出に成功したかと思われた男はアリ地獄のような砂の沼にはまり村の男らに助けられふたたび女の家に連れ戻されるのだが、男は砂穴の暮らしに一つの「希望」をみつける。砂の毛管現象による溜水装置の発明だった。
やがて女は妊娠し砂穴の家から町の病院へ運ばれる、半年ぶりに降ろされた縄梯子を伝って男は外へ出て深呼吸する。
穴の底で、何かが動いた。自分の影だった。影のすぐ上に、溜水装置があり、木枠が一本、外れていた。女を運び出すときに、誤って踏みつけられたのだろう。あわてて、修繕のために、引き返す。水は、計算で予定されていたとおり、四の目盛りまで溜っていた。
・・・略)別にあわてて逃げだしたりする必要はないのだ。いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書き込める余白になって空いている。(p216)
男はどのような自由を手にしたのだろうか、読後にのこされた奇妙な感覚この問いかけは何を意味するのだろう。
ああ、さすがに安部公房やっぱり安部公房だな。
現実が笑劇のように 抱擁家族(小島信夫著 講談社文芸文庫)20243
戦後教育における英語教師たちのドタバタ劇のような滑稽さの中に卑屈な内面の葛藤を描いた「アメリカン・スクール」だけでなく「微笑」にも共通してみられる不可解な行動が闇とも傷ともいえる屈折した人間の内なる世界を照らしだす。だが、表面化するのは滑稽なまでにアンバランスな振る舞いでしかない。
初期作品の「小銃」も衝撃だったが最晩年の「ラブ・レター」もあえて日記風の散文スタイルで書かれた実験的なものと考えられる。そういう意味ではこの作家の人間をみつめる眼差しや社会をとらえる感覚と関心のあり方自体にある意味で小島文学を特徴づける文体の謎があるのではないかと思えてくる。また、文学の可能性としてその様式や手法にも並々ならぬ実験願望があるともいえるのではないか。多くの作品が残されていることもあって読んでいくうちにまた印象が変わるかもしれないが個人的には既にたいへん魅力的な作家のひとりとなっている。
本著は先の短編集「アメリカン・スクール」と「馬」の魅力を合わせもつ滑稽さと悲惨さが混在する笑劇の様相を呈し家族の危うさを露呈する世界を描いたこの作家の傑出した作品といえるだろう。
ここでは妻時子と若いアメリカ兵との情事をきっかけに崩れていく日本の家族のようすが描かれている。家の主人、家族をまもる父(家長)という立場の健気な夫は懸命にたて直しを計るがなす術もなく悲喜劇を繰り返し滑稽なまでに自己を失っていく。
このことは戦後の日本のあり方とその欺瞞性をふまえ戦後派の作家のひとりとしてこのようなアイロニーを込めた形で家族を描いたのではないかと思いたくなる。つまり、滑稽なまでに家族を象徴する父という立場を強調する皮肉が、戦後の象徴天皇という形をもって天皇制を維持し国家体制(国体護持)を守るという欺瞞性を浮き彫りにしているとも考えられるからだ。ここに対米従属の形あるいは永続敗戦の姿としてアメリカ兵アメリカ文化にあこがれるように抱擁家族という崩壊する家族のようすが読みとれるのだ。それゆえに本著は否応なく悲喜劇の狭間で笑劇ともいえる現実が露呈される。いうなれば戦後の現実が笑劇のように。
だが、物語は複雑な要素が複合的に描かれることによって奥深い問題を意識化する様相を呈しているともいえる。いわばアメリカに代表される欧米文化へのあこがれともコンプレックスともいえる屈折した心情が重層的に描かれるのだ。
事件があって三日目、俊介が夕方電話に出たとき、何といおうか、と言葉が見つからなかった。ジョージからだった。きまり文句だが、「ハウ・アー・ユー・ミスター・ミワ」と呼びかけてきていた。俊介は「ジャスト・ファイン」と大きな声で叫んだ。その返答が我ながら滑稽だったが、彼と話す用意が何も出来ていなかったので、そうするより仕方がなかった。(p52)
この卑屈ともいえる奇妙な対応のあり方はどういうことか。相手は二十才そこそこの若いアメリカ兵なのだ。
おもしろいことに谷崎潤一郎や内田百閒のころの作家には欧米文化に対して日本の作法や文化に揺るぎない誇りや自信のようなものがあるのだが、抱擁家族の各人にはあこがれはあってもどこか自己喪失ともいえる自信のなさが見え隠れしている気がする。
たとえば家族内での関係性や男女間の関係性、これまでの家族像すべてがいわばアメリカ文化によって相対化されアイデンティティを失ったように混乱してしまうのだ。ここでは理想とする家づくりもそれぞれの考えが交錯する。
夫婦が買った、小田急で新宿から四十分の、奥まったT町の傾斜地を念頭においた設計者の設計は、ガラス張りの家で、冷暖房が完備というやつだった。「いっそうのこと、この池をプールにしたらどうかしら。土どめの壁を利用すればいいのよ。子供が運動不足になるんじゃないかな。海へ出かけていくことを思えば、その方がけっきょく、いいんじゃない。私は山はきらいよ」(p95)
アメリカナイズした夢を語りながら抱擁の後、俊介が時子を抱いたときのことだ。
「ちょっと、ここのところ、そっとさわってみてよ」「ここ、ここだね」「いたい!」時子は顔をしかめた。彼女は両方の乳房を彼の前に出した。それを愛撫しながら、「だって、こんなに豊かではっているじゃないか。とてもいいお乳だよ」と俊介は昂奮していった。(p97)
時子に癌がみつかって物語は新たな局面をむかえるが手術は無事に終わり家族も新しい家に移り住むことになる。そこには家政婦みちよの代わりに正子が来ていて息子の良一と関係をもつ。みちよの他にジョージにも家に来てもらうことになるが時子の癌が悪化し再入院となる。やがて、手術の甲斐もなく時子は息を引きとる。
俊介の混乱は家族内だけでなく院内や出入りする他の人々とも絶えず混乱していて悲喜劇をくりかえす。俊介は家族像という形式にこだわるのか再婚の相手を求めて家というイメージを求めているともいえるだろう。
巻末の解説で大橋健三郎は重要な指摘をしている。
夫婦として合理と非合理のやりきれない境目に落ちこんでゆく気配は、滑稽であると同時に深刻であり、近代の合理主義のもたらした相対感覚の極限が日本の家庭を根本から揺さぶっているのを、読者自身に感じさせないではないであろう。(p278)
そういう意味において崩壊する家族の姿を描いた悲喜劇とも笑劇とも考えられる本著はきわめて深刻でシリアスな問題を提起している傑出した小説といえるのではないだろうか。
教育の概念と定義 教育の再定義への試み(鶴見俊輔著 岩波書店)2024.3
「戦時期日本の精神史 1931‐1945年」で著者は次のように記述している。「長い人生を生きて転向を通り抜けないものがあるだろうか?この人々を転向へと導いた条件は何だろうか?彼らの転向を彼らはどのように正当化しただろうか?」と。
本著は自身の葛藤に満ちた人生体験とさまざまな人々との交流をみつめながら深部に刻まれた記憶を辿るように教育とは何かと問いかける。このことは己自身の端緒の常に更新される経験としての哲学の概念と重なっているようにおもえる。
それゆえに教育は連続する過程として教え教えられる相互のりいれをする作業であるとし、自己教育という概念で連続する過程として生き方をつたえるこころみであるともいえるし、転向について考察する行為とも重なりべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の実践的活動のあり方にも連動している。
著者は教育について次のようにいう。
昭和軍国時代にはナチスばりの法学を適用する立場にかわって民衆にのぞんだのだが、それらの語り口は、敗戦をとおっても、高度成長をとおってもかわっているようには私には感じられない。そこには、全体をひきいる教育思想がかわらずに流れており、その思想は、自分まるごとの私的信念と私的態度によってささえられているようには思えない。(p40)
私の言いたいことは、今の日本は学校にとらわれすぎているということ。学校がなくても教育はおこなわれてきたし、これからもおこなわれるだろう。学校の番人である教師自身がそのことを心の底におけば、学校はいくらか変わる。(p46)
明治以来の国家(全体)主義のなごりというべきか学校教育の現場では効率主義とも画一的平等主義ともいえる管理体制が否応なく根づいているともいえる。世間体とか同調圧力の働きもこのことに起因しているかもしれない。
また、学びのかたちとその概念、自身の経験をふまえて教育の多様なあり方について自分の身体と自分の家庭から学んだことが教育の基本であると次のようにいう。
家庭の外では、職場、これは、私にとっては、最初に軍隊、次に雑誌編集、その次に大学という順序になる。さらに男女関係、自分のつくる家庭、自分の子どもから受ける教育、近所の人たちとのつきあいから受けるもの、社会活動から引退した人として孤立ともうろくから受ける教育、近づいてくる死を待つことから受ける教育である。それらと平行して、私にとっては、サークルが、大切な役割をはたしてきた。(p98)
とりわけ著者の《転向》という主題は「思想の科学」を契機としていろいろなサークルに形をかえ、ダイナミックな成果と思想のダイナミズムを実現した。著者はあとがきで次のように記述している。
「教育について考えるとき、私をまったく隠して書くことはできない。同時に、私の受けた教育についてふれるところも、教えた人が「私」をまったく隠して何かを教えたときには、受けとった知識にアクセントがついていない。」と。
本著は著者自身の経験をふまえ教育という概念を問うとともに再定義を試みる哲学書とも考えられるのではないだろうか。
《日記》風の散文スタイル ラヴ・レター(小島信夫著 夏葉社)2024.2.3
いつだったか上野の博物館であったボストン美術館所蔵の曽我蕭白の一本の線になったような最晩年の作品を観ておどろいたことがある。また、コントラバスの斎藤徹は晩年の小さなコンサートで演奏しながら自ら〈うた〉を歌い、歌いおわったあと「下手だなーっ」といって観客を笑わせ、どこか解き放たれたように自由な音楽を楽しませてくれた。そのときこんなにも開放的な表現の境地に立てるものかと思い知った。
小島信夫の「アメリカン・スクール」の衝撃はあまりにも強烈だった。本著「ラヴ・レター」はこの作家の最晩年の作品といえるかもしれないが、その衝撃とは別次元のあまりにも自然というかあるがままの文体を楽しませてくれる均質で不思議なおもしろさがある。いうなれは日常的な会話のようで空想ともエッセイともいえる《日記》風の散文スタイルのような文章が自然につづられていて独特の魅力を醸し出している。
表題作となった「ラヴ・レター」では15歳年下の作家保坂和志や得能芳郎とのエピソードをふくむ語りがつづられている。ここでは保坂和志との往復書簡という形式で刊行された「小説修行」という本の取組などからみても二人の関係性が想像できるのだが次のような経緯がそのまま自然な文体として記されている。
ぼくは保坂さんの「カンバセイション・ピース」のことに移って行くつもりでいたが、いよいよこの小説が始まると、最初の一回分の二百枚ぐらいの分量の生原稿を送ってもらった。
その後何ヶ月かの間をおいて、生原稿でないにしても活字になったもののコピイであったり、というぐあいにして四、五回届けられた。そして最後の分については、間違いなく、また生原稿そのものであった。(p110)
また次のような記述もある。
ぼくの家では、妻と二人で長年くらしてきていて、どこへでも二人いっしょである。記憶力がだんだんうすれて行くようになってから、一人で家にいてもらうことが出来なくなった。どのくらい前からからか分からないが、彼女はこのぼくがそばにいるからといって自分の夫であると判っているわけではないことを知らされてきた。(112)
このように日常的な生活とこれまでの小説、あるいはそれにまつわる記憶や逸話があえて同一次元のものとして坦々と記述されることにおどろく。
ぼくのところでは、保坂さんのことを話題にすることがすくなくない。それらは、ほとんどぼくの小説の中にそのまま、大切な箇所としてえがかれている。(p114)
といった具合だ。さらに十七年前に書下ろした長編小説「静温な日々」についてのエピソードにふれ、妻や得能芳郎のことが詳しく語られる。その文脈から表題作となる「ラヴ・レター」へと展開される。
「こんど私が書く『ラヴ・レター』は、私が夫であるお父うちゃまにあげる手紙なの。いい?とはいってもほんとうは、お父うちゃまが、私といっしょになったときくれた『ラヴ・レター』がもう一つその中に入ってくるのよ」
「ぼくのその手紙を、しまって持っていたというわけだね」(p123)
その手紙は次のようなものだった。
「略)・・・ぼくはぼくのために妻が、子供たちのために母親が欲しいのです。彼女をなくした私の家はこわれてしまいます。ぼくはそうした目的のため、多くの婦人に会ってきましたが、適当な人を見つけることができませんでした。ところが先だって、ぼくはふとしたことであなたにお会いし、あなたこそぼくの求めていた人だと思ったのです。どうかぼくと結婚して下さい。ぼくは誓ってあなたを幸福にします。・・・」(p124)
いろいろな問題を克服し結局ふたりは結婚するがどのような日々を過ごしてきたかそのようすも英語教室の課題となったラヴ・レターとして詳しく記されている。
「略)・・・今日、私はあなたにラヴ・レターを書きました。セント・ヴァレンタイン・デイはまだ先ですけど。略)現在、私は幸福なグランドマザーです。私は余生が価値あるものであれば、とほんとうに思っています。私たちがこれからも今までと同じように暮らして行けたらと願います。心から神様とあなたに感謝いたします。わがいとしきnobuoへ あなたの妻のkazuyoより」(p125)
こうして「静温な日々」のストーリーからこのようなラブ・レターが本著の物語として等しく組み込まれたことになる。
あまりにも衝撃的だった「小銃」「アメリカン・スクール」「馬」などの短編とはかけはなれた作風にふれ、凄みすら感じさせる実験的な作風に驚嘆させられたが、回送電車宣言と居候的散文のスタイルを標榜する堀江敏幸ならではの解説にあるようにこの作家の小説の可能性にあらためておどろかされる。
表題作だけでなくべつの短編にも、いま書いたばかりの逸話が分散されて入っていた記憶に雨漏りがあったのか、雨漏りがあったからその記憶に遡ることができたのかは判然としない、小島信夫の小説は、横にも縦にもつながってひとつの「全体をなしながら、その「全体」を見渡すことの不可能性を承知のうえであえて細部を語りつづける、場当たり的な描き方に支えられているのだ。(p266)
これほど抽象的なことを言い募りながらしかも具体的で、哀切と滑稽さをかねそなえた「全体としての細部」は、小島信夫だけが創造しうる世界だろう。(p269)
「抱擁家族」「静温な日々」をこれから読むつもりだがアメリカン・スクールが内包する滑稽さと恐ろしさから晩年になって哀切と滑稽さへと変容してとしても滑稽さという要素が共有されていることを思えばこの作家特有のものとはいえないだろうか。次に読む二作が楽しみである。
記憶と現実と精神病と… 幻化(梅崎春生著 新潮文庫)2024.1.22
本著は表題となる「幻化(げんけ)」のほかに「庭の眺め」「空の下」など6作の短編から成り立っている。巻末の年譜によると昭和20年12月というから終戦直後の混乱の中で自身が経験した軍隊の体験を基礎にして「桜島」を執筆。そして翌年9月、「素直」創刊号に掲載され文壇デビューとなっている。
梅崎春生の作品にふれるのはこれがはじめてだったが本著のどの作品においても共通して感じとれることはといえば、いずれの作品にも「喪失感」とも「虚脱感」「虚無感」ともいえる特有の感覚が作用しているように思えるということか。このことはある意味で戦後派特有の感覚といえるかもしれないが眼前の事象に対して静かに向きあうことで自身を含む人間存在についての深い洞察が読みとれる結果となっていると思える。
「幻化」を除くこれらの6篇の短編でもいえることだが、「隣人」を眺めるそのまなざしや向きあい方にさえどこか虚無的で感情の抑制が自然に作用しているように思われるのだ。またはその抑制そのものにリアルな感情の動きを注視しようとしているとも考えられる。
冒頭の「庭の眺め」「空の下」と読みはじめたときは正直なところやや物足りなさを感じたけれど、次々と読みすすめていくと何気ない日常の描写自体に抑制された感情、つまり虚無的な喪失感のようなものが漂っていることに驚かされる。
「幻化」はこれらの短編の要素にさらに精神病院をとびだして自身の記憶を辿るように旅に出る五郎という男の物語としてはじまる。旅先で偶然に知りあった同じ飛行機の隣客つまり生きずりの隣人となる丹尾という男、海軍基地のあった坊津で知りあった女、さらに戦争の後遺症ともとれる精神的な病理作用が錯綜するように物語は展開されていく。だが、ここには何かが欠落したいわば喪失感のような虚無的な心理でおおわれているような不思議な感覚がある。
主人公の五郎がかつての海軍基地があった坊津を訪ねたときのことだ。
〈なぜこの風景を、おれは忘れてしまったんだろう〉感動と恍惚のこの原型を、意識からうしなっていた。いや、うしなったのではない。いつの間にか意識の底に沈んでしまったのだろう。今朝コーヒーを飲んだ時、突如として坊津行きを思い立ったのではない。ずっと、前から、意識の底のものが。五郎をそそのかしていたのだ。(p190-191)
高揚された気分が、しだいに重苦しく沈んで来る。彼は低い声で、かつての軍歌を口遊んでいた。歌おうという意思はなく、自然に口に出て来た。『天にあふるるその誠 地にみなぎれるその正義 暗号符字のまごつきに 鬼神もいかで泣かざらむ』(p191)
と、ふとしたことから五郎は行きずりの女にかつて軍務に服していた頃のことと今に至る心境についてを語るのだった。
五郎は呟いた。睡眠療法でどうにか直りかけていたのに、脱走して思うままのことをした。やはりあのコーヒーを飲んで思ったことは、衝撃的なものか、あるいは正常人に戻りたくない気持ちからだったのか。しかし予定していたことと、実際の行動は、ずいぶん食い違った。「一体おれは、福の死を確かめることで、何を得ようとしたのだろう?おれの青春をか?」結局おれは福の死をだしに、女を口説いた。そして猥雑な中年男の旅人であることを確認しただけに過ぎない。しかし症状としては、昨日はまだよかった。不安や憂鬱は、ほとんどなかった。今日はどうも具合が悪い。ぼんやりと『死』が彼の心に影をさしている。この長い砂浜に独りでいるのがいけないのか。(p234)
この小説では戦争体験とその記憶とともに現実と精神病の作用がかもし出す独特の物語としてくり広げられるだけでなく、戦争そのものの不条理が静かに漂っているかに感じとれる。
熊本の宿で、五郎は女指圧師に揉まれていた。指圧師は二十前後の体格のいい女で、黒いスラックスと白い清潔なブラウスを着けていた。体操学校の生徒のような趣がある。人なつこい性格なのか、揉みながらしきりに話しかけてくる。(p248)
こうして、五郎は自身の記憶をたどる旅先で次々と行きずりの人々に出会っていくのだが、何の因果か物語の最後は阿蘇の外輪山でこの旅のはじめに飛行機内で知りあった丹尾と遭遇し『死』をイメージする賭けごとの途中で終わりをむかえることになる。
この物語の結末もみごとであるがこの作家の底知れぬ可能性を感じさせる繊細な小説であるといえる。それゆえに50歳という早すぎた死が惜しまれてならない。
資本論をめぐって ゼロからの『資本論』(斎藤幸平著 NHK出版新書)2023.12
有機農業をやっている人からいわれたことがある「基本は自給自足です」と。分業と流通がはじまると農業は崩れるということなのだろうか。高校の教師が「大きな学校に移動してオレはバカになった」という。なぜかといえば分業化が進んでやることが減って考えなくてもできる仕事になったというのだ。
資本主義において効率よく生産性をあげる仕組みが人間の能力を衰退させ、イノベーションの進化によって人間の能力を補えば人の力は不要になるのだろうか。その挙句、資本主義社会は資本家と労働者の格差をひろげ労働を単純化し労働そのものが非人間化する結果を招く自明性を孕み、ひたすら価値増殖をくり返すグロテスクな運動のような構造をもつシステムともいえよう。その問題を是正し克服する仕組みとして合理的な規制や共同的な制御が実践されるわけだが、ソ連の崩壊とともに現代社会は一息に新自由主義、グローバル資本主義とシフトした。そのことは中国経済においてもまったく同じといえるのではないだろうか。
マルクスの「資本論」はこのような資本主義の矛盾や多くの問題点を意識しながら当初の論文に修正を加え盟友エンゲルスの協力によって第3巻まで到達したがこの思想は未完成だという。そのことがポスト資本主義をめぐる多くの研究を進展させマルクスの思想をさらに進化させることとなった。
本著はこのような経緯を分かりやすく解説してくれるマルクス入門書ともいえるかもしれないが15万部突破の大ベストセラーとなったことになる。
1867年、マルクスの「資本論」第1巻は刊行されたが著者は次のようにいう。
こうした自然科学の議論に刺激を受けて、晩年のマルクスは、来るべきポスト資本主義社会の姿を、地球環境の持続可能性の問題とからめて構想しようとしていました。これを近年では「環境社会主義(ecosocialism)」と呼びます。単に人々の経済的平等だけではなく、自然との物質代謝の合理的な管理を目指すのが環境社会主義です。そしてこの環境社会主義が、資本主義に起因するグローバルな環境危機の時代に、再評価されるようになっているのです。(p147)
このように「資本論」は研究と思索を深めながら、15年がかりで第2巻の草稿を第8稿まで書きながら未完のままマルクスは亡くなった。それでも、第8稿まで7回も書き直した第2巻は、かなり完成に近づいていたという。一方、並行して執筆していた第3巻のまとまった草稿は、1861年から65年かけて、第1巻を刊行する前に書いたものしかない。それゆえに「資本論」全3巻はマルクスの没後に盟友エンゲルスが必死になって遺稿を編集し刊行したものでそれを一つの完成形としている、ということらしい。
しかし、エンゲルスが「マルクス主義」を体系化しようと努力すればするほど、晩年のマルクスが格闘していた未解決の論点や、マルクスの新しい問題意識が見えにくくなってしまったのも事実です。なぜなら、そうした新しい洞察はマルクス自身の構想に大きな変容を迫るもので、到底、残された「資本論」草稿の内容に収まるものではなかったからです。(p149-150)
さらに、著者はこのように続けている。
では、「資本論」に入れることができなかったアイデアとはどのようなものだったのでしょうか?そして、マルクスが「資本論」では答えることができなかった、「修復不可能な亀裂」を修復するための、未来社会のビジョンとは?この点についての明確な答えが、今こそ求められています。つまり、21世紀のコミュニズム論が必要なのです。(p150)
著者が最も強調する論点でありこの本を書く動機がここにあると思われる。つまり、「資本論」をめぐるマルクス晩年の思想的な変容における研究が注目され資本主義に代わる未来社会のあり方が求められる所以がここにあるといっても過言ではない。
資本主義をこのまま放置すれば社会の富も自然の富も失われ、格差拡大と気候変動の危機に直面するだろう。マルクスは一貫して富の豊かさをとりもどすために資本主義を超えた社会を構想していた、と著者は強調する。つまり、現存した社会主義とマルクスのコミュニズムの違いについて民主主義の欠如とし、著者は国家主義に対してアソシエーション(NPOやNGOなど自発的な結社)主義を提唱するとともにトップダウンからボトムアップ型の政治改革とコモン(万民が共有する富)の再生とその必要性を説く。
資本主義のしぶとさを前にして、マルクスは、その力の源泉を探求する必要性を痛感するようになっていきます。それがマルクスを経済学批判に導いたのであり、その研究成果であり「資本論」においては、マルクスは楽観的な改革ビジョンを捨て去り、革命に向けた資本主義の修正に重きを置いたのです。(p180)
マルクスのこの変化は「共産党宣言」(1848年)のころの生産手段を国営化する「プロレタリアート独裁」の革命思想から「資本論」へと大きな議論と変容を企てアソシエーションによる修正と改良を求めることになった。また、パリ・コミューンという地域主義的な抵抗も今日的なミュニシパリズムの可能性をもつ歴史的な出来事として特筆される。著者は階級だけでなく、ジェンダーや環境、人種問題をふくむ今日的な諸問題をふまえ、新自由主義批判にとどまるのではなく、やはり私たちはコミュニズムというユートピアを想像するために、「資本論」を読むべきであるという。
そういう意味でも本著はゼロからの『資本論』として、著者が提言する新たな「資本論」の読み解きとその可能性を問うもので新鮮なおどろきがある。